novel

No.2 疾走する死神

 荒くなる息。その息に、湿り気がない。
 口の中はいつの間にか、カラカラに乾いている。飲み込む唾もなく、喉が張り付き痛みすら感じる。
 現れ出でたる「奴」の姿を目撃して数秒。それだけの間で、まるで全身の水分を「奴」に吸い取られたかのよう。
 それだけに止まらない。恐怖と緊張が全身を強張らせ、何一つ動かない。
 身体も、そして思考も。
 どうにか息だけはしている。あがくように、荒く息をする。
 対して、「奴」は口からだらしなく、ただしたたり落ちるままにまかせた唾液が、ねっとりと、だらだらと、したたり落ちている。
 まるで、吸い出した水分を溢れさせているかのように。
 その姿たるや、おぞましいの一語に尽きる。
 元の姿は、鋼鉄で出来ていた。見るからに頑丈ながら、人の姿を模した姿。紫の光沢を放ち、厚い胸板が男性の力強さと美しさを感じさせていた。アンドロイド特有のシンプルながら美しい姿は芸術の域に達していた。
 しかし今の姿はどうだ。身体は完全に別の物質・・・忌まわしきD細胞で形成され、質感を幾ばくも感じさせない。人の姿をどうにか止めているが、姿勢は前屈み、強さや美しさよりも醜さが際立つ。亜生命体特有のシンプルながらおぞましい姿は醜怪(しゅうかい)の域に達していた。
 Mは手より伝わる痛みに、我を取り戻した。恐怖のあまりきつくきつく握りしめていたグラディウスが軋み悲鳴を上げている。
 おののいている場合ではない。止まっていた思考を急速に回し、Mは一手目をどう差すか懸命に探る。
 まず、一人ではどうあがいても勝てないだろう。立ち向かうのは愚の骨頂と言い切るしかない。
 では支援を要請するか? それもまた愚かな行為。要求した支援がここに到達するまでに、殺されるのがオチ。
 ならば救助を要請するか? それはすべきだろう。だが、その救助をあてには出来ない。支援同様、到着するのを待ってはいられないし、何より待たせてはくれない。
 となれば、答えは一つ。たった一つだけ現状を打開する策がある。
 究極の選択で、最善の方法。
 それはすなわち・・・。
BARTA!」
 Mは策の下準備の為に、ゆっくりと迫る亜生命体・・・かつてキリークと呼ばれていた邪神の猟犬に向け冷気を放った。
 地を凍てつかせながら、冷気は真っ直ぐに猟犬へ向かい、直撃。
 あわよくばこの一撃で猟犬ごと凍れば御の字であったが、そう上手くはいかない。直撃にもかかわらず猟犬は何事もなかったかのごとく、これを号砲とし一気に間合いを詰めた。
 なぎ払われる鎌。そこに、標的となるMの姿はなかった。
 号砲を合図に動いたのは猟犬だけではない。Mは冷気を放ちすぐに、後ろを振り返り、まさに脱兎のごとく駆けだしていた。
 策。それすなわち、逃げるという事。
 卑怯者。愚か者。臆病者。
 逃げるという行為に、後ろめたい印象を持つ者は多く、そして逃げる者をあざ笑う者も多い。
 だがしかし、「逃げる」という策は明日という何物にも代えられない報酬を得る為には最適の策。
 無謀に立ち向かい、命という宝物を砕く事を勇気,勇敢と賞賛する事がそもそも間違い。勝算もなく立ち向かうその無謀さこそが愚かである事を、逃げるという策に躊躇いを持たぬ参謀は十分心得ていた。
 Mは号砲を一瞬の足止めにと考え放った。それがさほど効果を発揮しないだろう事は予測済みであったが、予想以上に猟犬の足止めにはなってくれなかった。猟犬が振り抜いた鎌は、Mの背中真後ろをかすめる程に迫っていた。
 このまま背中を見せ続けるのは危険か? しかし再度振り向き何かを仕掛ける方がよほどリスクが高い。今はこのまま懸命に足を前へ前へと進ませる方が得策だ。
 だがこのままではすぐに追いつかれる。何か手を打たなければ。
 ここラグオルの遺跡から脱出する最善の方法は、テクニックかアイテムで帰路を生み出しそこから帰還する事。だがその帰路を生み出すにも僅かだが時を必要とする。その僅かな時は、猟犬にとって十分な時。鎌で首を刎ねるのには十分な時になる。
 今Mが向かっているのは、政府により設置されたテレポート装置。既に設置されたテレポータならば隙を与えることなく帰還出来る上に、ハンターズライセンスIDを持つ者にしかこのテレポータは作動しない。つまり邪神の猟犬はこのテレポータを利用しMを追いかける事が出来ない。
 策に策を重ね、とにかくテレポータまで逃げ切る。生き延びる道はそれしかない。
 その為にも、背後に迫る鎌を少しでも遠ざける必要がある。
 もしMがアンドロイドならば、アンドロイド特有の機雷を放り投げ足止めが出来ただろう。だがMはヒューマン。テクニックが機雷の役割を果たすが、機雷のような即効性も無い。発動にも時間が掛かりすぎる。そもそもテクニックは発動するのに立ち止まる必要がある。立ち止まる事自体が命取りになりかねないこの状況で、そうテクニックなど放てるものか。
 ひたすら駆ける。今出来る精一杯はそれだけ。
 裾の長いハンタースーツが足にまとわりつく。実際には伸縮性の高いハンタースーツは身体に密着しながらも様々な動きに対し邪魔になる事はない。今こうして走る事に対しても同様。行儀悪いが足を上に蹴り上げようともスカート部の裾は大きく広がるのだ。しかし密着したハンタースーツがまとわる感覚が、足を鈍らせているのではと焦らせる。
 紙一重という僅かな距離で、幾度と無く鎌が振り抜かれている。
 その恐怖たるや、顔中を脂汗で満たしながらそれを拭う事も忘れさせる程。
 そんな状況でも、黒の魔術師は懸命に生き延びる策をあれこれと思考する。
 何時までも、この紙一重という距離を保てるとは思えない。迫る猟犬はどうか知らぬが、少なくともMは「疲れ」という己に宿る敵とも戦わなければならない。走り続ければ、どうしても足が徐々に鈍くなっていく。
 その鈍くなる足を考慮した上で、何処かで、何かで、猟犬との距離を広げる必要がある。
 どうすれば良い? 懸命に動かす足同様、脳を懸命に働かせる。
 切羽詰まるMの脳裏は、まるでアンドロイドのように鮮明な地図を描いた。現在位置とテレポータとの位置に印を打ち込み、二点を結ぶ道筋をいくつも書き示す。さて、どの道が最も適切か?
 最短距離で辿り着く道が一つ。これが最も無難で安全のはずだが、Mはこの道で逃げ帰る選択を削除した。
 最短の道は、逃げる事となった場所へたどり着くまでに通った道。通る際にあらゆる障害を撤去してきた、何も無い道。だからこそ、Mはこの道を選択しなかった。
 障害はむしろ、今のMには助けになるはず。来る時に選ばなかった別の道へと、Mは足を向けた。
 道幅の狭い通路。そこに足を踏み入れたMは、ここで一つの「罠」へと導こうとした。もっとも、導かずとも否応なく付いてくるのだが。
 記憶が確かならば、この先に一つの「罠」がある。それを発動させつつ自分はそれをかわせれば、大きな足止めになるはず。
 Mは自分の記憶を信じ、「罠」があると思われるポイントにさしかかったところで前方へ飛んだ。
 とにかく前へ。それだけで飛び出したMはしたたかに胸を強く床に叩きつけられた。むろんMの足は止まっている。
 しかし、足を止めたのはMだけではない。
 Mの後方に猟犬の姿はなく、代わりに大きな釣り鐘のようなものが通路を塞ぐように落ちていた。
 グォームと名付けられた、ここ遺跡特有の罠。上から落とされるこの釣り鐘は、まるで子供が網で虫を捕まえるかのように犠牲者を補足し、自爆という手段で哀れな犠牲者に傷を負わせる罠。まさに補足、猟犬の足を捕らえるにはうってつけの罠となった。
 上手くいった。だが悠長にしてはいられない。
 傷めた豊満な胸を押さえながら、Mはすぐさま立ち上がる。すぐにでもここを立ち去らねば、猟犬を罠にはめた意味が無くなる。
 Mが駆けだしたすぐ後、轟音と共に釣り鐘が割れた。自爆し傷を負わせる事が目的の釣り鐘は、そのまま猟犬を捕らえ続けてはくれない。結局は僅かばかりの足止めにしかならなかった。しかしこの僅かな時が、Mの生死を分ける。どれほどの時を稼げたのか、それを考える事も惜しみ、Mは走り続ける。
 思っていた以上に、時を稼げたようだ。これはMにとって幸運だったが、しかし同時に不幸も訪れた。
 罠に掛けるべく飛び出した時、足を挫いたようだ。
 悲鳴を上げる右の足首。その痛みに堪えながら懸命に足を動かすが、心は我慢しても身体は正直。徐々に足が鈍くなっていくのが自分でもよく判る。焦る程に、身体の状況判断ばかりは冷静になっている。
 稼げた時間は、ほどなくして使い切るだろう。すぐにでも次の一手を打たなくては。
 脳内の地図を広げながら、Mはその一手を模索する。
 この先の部屋。そこで策を講じるか。危険だがこのまま追いつかれるよりは・・・Mは決意し部屋へと飛び込んだ。
 その部屋には、他の亜生命体が大挙し居座っていたしていた。
 前方に群れる亜生命体。後方からは追いかける亜生命体と成り果てた犬。
 完全に挟まれた形。これは危機の到来か?
 いや、Mはこの状況を予測済み。むしろ群れた亜生命体がいなければ脳内で組み立てた「罠」が成立しない。
 戸惑うことなく、群れへと向かうM。それを犬が執拗に追いかけてくる。
 追いかけるのは、犬だけではない。ワラワラと、群がる亜生命体もMに向かい集まってきた。
 これだ。Mはこの亜生命体の兵隊達が持つ習性を利用しようとした。
 Mと猟犬の間には、先ほど生み出した若干の「距離」がある。その距離はさして広くはないが、邪魔を入れるには十分な広さ。
 本能・・・と、D細胞で作られた亜生命体に当てはめるのは適当か判らないが、ともかく思考で動く事のない亜生命体を、思考で誘導活用し、追ってくる猟犬をまく。これがMの罠。
 企みは上手くいった。考えも無しに群がる兵隊を壁に、猟犬との距離を更に広げる。
 木の葉を隠すなら森の中、と言うが、亜生命体をまくには亜生命体の群れと、この場合なるのだろうか。
 ただこの企み、これだけでは問題がある。
 ここは亜生命体が群がる部屋。入り口は開いていても、出口はセキュリティが働きロックされたままなのだ。
 出口を開くには、ここにいる亜生命体を全滅させる必要がある。しかし全滅させてしまっては、動く壁を活用出来なくなり本末転倒。むしろこの状況で兵隊の駆除は逃げるより危険だ。
 むろん、それはMも承知。それでもこの部屋に飛び込んだには別の策があるからに他ならない。
 問題は、その策が一か八かの賭である事。
 Mは悲鳴を上げ続けている右足をどうにか動かしながら、右に左にと猟犬と兵隊を誘導していく。
 その間も猟犬の鎌はもちろん、兵隊の腕もMに襲いかかる。それをかわしながら、Mは奴らを一つにまとめつつあった。
 ただただ群がる兵隊に、猟犬はいつの間にか囲まれていた。亜生命体同士にその意図はないが、上手くMに乗せられていた。
 今だ。仕掛けるなら今。Mは賭に出る為逃げる足を止めた。
RABARTA!」
 後ろを振り返らず、Mは己の周囲に冷気をまき散らす最高位のテクニックを放った。このテクニックは発動時に振り向き直す必要がない利点がある。
 そしてもう一つ利点がある。これがMの「賭」。
 兵隊はMの賭により凍てつき、氷像という壁となってその場に止まった。
 賭のポイント。それはまず、兵隊が凍てついてくれるかどうか。アンドロイドの機雷とは異なり、テクニックは確実に相手を凍らせる事が出来ない。
 そして、どれだけを凍てつかせられるか。完全には凍らない兵隊がどれだけ壁となって止まってくれるか。
 これは運だけが頼り。参謀もこればかりは計算しきれない。
 まず猟犬は凍らない。これは運以前に凍らないだろうと予測していた。
 兵隊も、全ては凍っていない。だが運良く、Mと猟犬の間にいた兵隊どもは全てが凍てついた。
 完璧な壁が出来た。猟犬から距離を取るのはこの好機を置いて他にない。
 Mは既に、入り口に向かい走り出していた。どれほどの兵隊が凍り付いていたのか、実際にMは確認していない。振り返る余裕はない。
 この策が完璧なまでに上手くいった事をMが知ったのは、部屋を離れ走り続けただいぶ後の事である。

 ずきずきと右足が痛む。無理をしすぎているのは承知しているが、今立ち止まり治療する気にはなれなかった。
 後方にはもう、猟犬の姿は見えない。だが、迫ってくるだろう恐怖感がMに安堵を与えない。
 むしろ間近に猟犬が迫っていた時の方が、Mは適切な判断が取れていたかもしれない。
 姿が見えない事がかえって恐怖心を煽り、冷静な判断をMから奪っていた。
 治療はまだしも今ならテクニックで帰路を作り出せたはず。
 にもかかわらず、Mはとにかく早くテレポータへと、そればかりが心を支配していた。
 黒の魔術師と呼ばれた参謀から、これほどまでに冷静さを奪う恐怖。それこそが、邪神の申し子である猟犬の「力」なのだろうか?
 そして猟犬が猟犬たる事を、Mは程なくして痛感する事となる。
「そっ、そんな・・・」
 テレポータまでもう少し。その土壇場に居合わせたのは、逃げおおせたと思っていた猟犬だった。
 侮っていた。猟犬が獲物を狩るその嗅覚を。
 そもそも猟犬にとって、群がる他の亜生命体はなんだ? 仲間か? 違う。あれらは障害でしかない。
 凍てつき動かなくなった氷像に鎌を振るうのに、何の躊躇いがあろうか?
 そして開かれた奥の扉。猟犬は優れた嗅覚で、奥の扉からMを捕らえる為に先回りしていたのだ。
 万事休す。冷静さを奪った恐怖が、今度は再び逃げる気力を奪っていた。
 ひたひたと、ゆっくり確実に歩み寄る猟犬。本来のアンドロイドにはなかった口が、更に広がりねっとりとした唾液をだらだらとこぼしている。
 笑っているのか。この猟犬は獲物を狩る喜びに打ち震えているのか?
 何を考え、何を求めているのか。それをMが理解出来るはずはない。判っているのは、奴が持つ鎌が、間もなく自分の首を刎ねるだろうという事。
 死神が鎌を失い、失った鎌よりも強力な鎌で、首を刎ねられる。なんという皮肉か。
 まるで運命があざ笑っているかのようだ。
 そう、運命はあざ笑っている。
「クックックッ・・・なかなかに面白い趣向ではないか」
 本来なら、これも不吉な声。しかし今は、救いの声なのか?
「噂を聞きつけ降りてはみたが・・・なるほど、俺は運が良い。そしてお前もな、女」
 確かに、Mは運が良い。少なくとも、今すぐ首を刎ねられる事はなくなった。
 嘲り笑う運命は、さてMに味方したのだろうか。
「先代・・・か。殺ってみたかったぞ、もう一人の俺よ」
 現れた、もう一匹の猟犬。
 キリーク・ザ・セカンド。
 ここに、二人のキリークが対峙する事となった。

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