妖精学者

〜フェアリードクター〜

 目には見えずとも、存在する「もの」がある。
 例えば、人の心。見ることは適わずとも、人が一人そこにいるだけで心もそこにある。それは見えなくとも己の中に存在することを「実感」しているからこそ、信じることか出来る。
 そう、見えなくとも頭で理解しているからこそ、その存在を信じられるのだ。
 では「目に見えない」ではなく、「見たことがない」物はどうだろうか?
 これもまた、頭で理解出来るかどうかで存在を認知出来るかどうか判断されるだろう。見たことが無くとも、自分が住まう地域外の土地や国々の存在を信じられない、と言い出す人は少ないはず。それは見たことが無くとも存在していると「信じて」いるから。
 それでは、「妖精」が実在すると言われたら、あなたは信じることが出来るだろうか?
 妖精でなくとも良い。幽霊でも悪魔でも、およそホラーやオカルト,ファンタジーと言った類に分類される者達ならば全て。
 多くの人は、彼らの存在を否定するだろう。見たことがないから。肯定する人もいるだろうが、そのように存在を信じる人達は彼らを「見た」事がある人がほとんどではないだろうか?その見たこと自体が錯覚だとしても。
 存在を信じるかどうかは、「見たこと」があるか否か、で判断されやすい。「見える」かどうかで判断されることは希。
 しかしそれでも、存在する者達がいる。人の目に見えずとも、存在している者達がいる。だが人がそれを信じることはまず無い。人は感覚で得た情報に頼る生き物だから。
 そんな人間の中でも、「見る」事が出来る……出来てしまう者が時折存在する。これより語られる物語は、妖精や幽霊,悪魔といった人の目に見えることのない者達を見る力を得てしまった男の話。世間では認知されない者達を見えるが為に認知出来る男の、滑稽なる話を楽しんで頂きたい。
 そうそう、話をする前に一つ。
 彼、「妖精学者(フェアリードクター)」の存在も含め、この語りをただの戯れ言と受け止めるか否かはあなた次第。ただ彼も彼の友人達も、空蝉……現世の住人……あなたが彼らを「認知」して頂けた時より、彼らは生きた者となる。それをまずご理解頂きたい。

「でさでさ、結局何処に行くのよ?」
 物語は、この語りの中心となる人物「フェアリードクター」が極々平凡な一件の家庭宅へ訪れようとしている、その道中より始まる
「ねー、今周りに誰もいないし、答えてくれてもいーじゃんかよー」
 ブンブンと、トンボの羽根を背負いし少女が学者の頭部を地球に見立て、まるで月のようにグルグルと旋回しながらしゃべり続けている。それこそ、彼女自身が起てる羽音よりもやかましく。
「……依頼人のお宅だよ。出かける前に説明しただろ?」
 面倒くさそうに、屋敷を出てから何度も繰り返した説明をする学者。その際彼は辺りに人がいないことを注意深く確認することを忘れない。
「そんなキョロキョロしなくても、誰もいないって言ってるのにー」
 学者が自分と話す時に必ず取る行動。見慣れてはいるが、その仕草が彼女には可笑しいらしく、羽音と共にケタケタと笑い出した。
 何度言われようと笑われようと、彼はこの行為……彼女や彼女の仲間達と話す時に周囲へ気を配るのを止める訳にはいかない。
 手のひらより少しばかり大きい身長。そんな身体を持つ彼女や彼女の仲間達を、一般の人達は見ることが出来ないばかりか、彼女達の声を聞くことも出来ない。
 それは、彼女達が妖精だから。
 もし彼女達妖精と話をしているところを第三者が見れば、虚空に向かい一人頭のおかしくなった男が話しかけているようにしか見えないはず。不意に見られる程度ならばその場で奇妙な男というレッテルを貼られ通り過ぎるだけに止まるが、雑踏の中だろうが車内だろうが、所構わずベラベラと話しかけてくる彼女達妖精の相手をし続けていれば、奇妙な男と言うだけに止まらなくなってくるだろう。彼はそれを懸念し、彼女達と話す時は常に警戒を怠らないようにする癖が付いていた。特に今頭の回りを腹を抱えながら飛び回る彼女はおしゃべり好きのピクシーなだけに、注意を怠る訳にはいかない。
「ねーねー、それで何しに行くの?」
 とにかくしゃべり続けていないと落ち着かないのだろう。声が途切れるのを嫌うかのように、笑い声は間髪入れず質問へとすり替わった。
「教授からの紹介で、赤ちゃんを見に行くのさ」
 そして彼は、すぐに「赤ちゃんを見に行って何するの?」という質問が来ることを見越し、その答えを喉元に引っ張り出す準備をする。
 案の定、羽音とよりも響く声が予測された質問通り耳元で小さな口から放たれた。
「赤ちゃんの母親が、突然「この子は私の赤ちゃんじゃない」って騒ぎ出したらしくてね……その母親を診た心療内科の医者から教授の下に相談が来て、そして俺の出番って事になった訳だ」
 簡素にまとめた答えとはいえ、これでも要点はきちんと押さえ答えたつもりだった。しかし質問した当の本人には理解して貰えなかった様子。彼女ではなくともこの説明では意味が判らないだろうが、他に説明のしようがないのも事実だ。
 彼に代わりもう少し詳しく事の次第を説明するならば、こうなる。
 患者……と呼ぶのは妥当ではないのだが、心療内科の医者が診た患者は、ある日突然自分が腹を痛めて産んだ子を、自分の子供ではないと言い出したらしい。患者の夫や周囲の人は育児ストレスによる錯乱だと思い心療内科へと連れて行ったそうだが、医者の見立てでは、特別ストレスが貯まっている様子はないという診断。しかも鬱病などの精神障害も見受けられないとのこと。しかし患者扱いされた母親は未だに自分の子供に向かい自分の子供ではないと言い続けているらしい。終いには、子供に向かい「私の赤ちゃんを返して」と泣きわめく始末。むしろ子供を自分の子供ではないと認識してしまっている事でストレスが蓄積されている方が問題らしい。そのストレスを取り除こうにも、母親が抱いてしまったあり得ない誤解を解くことが出来ずさじを投げかけていたらしい。
 ここまで来れば重度の精神病と診断されてもおかしくない状況なのだが、この話を何処で聞きつけたのか、ある大学教授が「私がよく知るドクターならば、その女性を救い出せるやもしれない」と、彼……フェアリードクターを紹介した、という経緯がある。
「ようするに、どうやら「取り替え子(チェンジリング)」にあったらしい」
 学者の言葉に、ピクシーはへぇと納得しうなずいた。
「日本でチェンジリングなんて珍しいね。いつからここはアイルランドになったの?それとも、日本の首都はダブリンだったかしら?」
「今でも日本は日本で、首都は東京だよ」

 冗談とも本気とも取れるピクシーの戯れ言に冗談で切り返したかったが、そこまで頭が回らず極々真面目に切り返してしまった学者。
 さて、ここで彼らはごく普通に「チェンジリング」をまるで花見のような行事かのように語り合っているが、理解出来ているのは会話を行っている二人だけだろう。もっとも、今この場には彼ら二人しかいないのだからそれで問題はないのだが。
 しかしこの会話より数刻後、学者は患者にされた母親と彼女の夫に、チェンジリングについて説明しなければならなかった。

「日本では鬼が子供をさらう話はよくありますが、子供を取り替える話は日本よりもアイルランドなどで語られる妖精伝承(フェアリーテール)によく登場します」
 目的地に到着し、学者はまず夫妻にチェンジリングの説明をする事から始めた。それは当然、この説明が今回教授から持ちかけられた依頼を遂行する為に必要なことだから。
「何らかの目的で、妖精達が人間の赤ん坊や美しい娘を誘拐し、代わりに自分達の子供や魔法を掛けた木の枝など置いていくという伝承です」
 訪問してすぐにこのような事を言い出すドクターを、夫はいぶかしげに眺めなが聞いている。当然だろう。心療内科の医者から大学教授を経由し紹介された自称「ドクター」とはいえ、突然おとぎ話の解説を始められれば怪しむのが当たり前と言えば当たり前。
 付け加えるならば、彼は自己紹介の折りに「ドクター」を名乗りはしたが、日本人が一般的に抱くドクターのイメージ、つまり医者ではなく、博士や学者といった意味での「ドクター」だと語った。てっきり妻を治療しに来てくれた者だと思っていた夫にしてみれば、学者風情が己の学問を突然語り出せばいぶかしくも思う。
 しかし治療対象と思われている妻の方は、真剣に学者の話に耳を傾けている。彼女にしてみれば、学者の語る話が真実ならば、自分が感じる「我が子を我が子と思えない違和感」に説明が付くのだから。
「もちろん伝承には「裏」があるんですよ、旦那さん」
 怪しまれている事を重々承知している学者は、自分が怪しい宗教の勧誘人ではないことをきちんと説明する必要があった。
「このような伝承が広まった背景には、アイルランドでも日本でも、子供などの拐かしが古くからあった為なんです。今でも誘拐のニュースは耳にしていると思いますが、子供の誘拐は何も近代的な犯罪ではないんですよ」
 学者の説明に、納得する家主。その様子を見ながら、自分は詐欺師だなと己に対し苦笑を漏らしていた。と同時に、自分の肩にちょこんと座っているピクシーも、彼にしか聞こえない声で「嘘つきだよねぇ、相変わらず」とケタケタ笑いながら彼を非難していた。
 チェンジリングは実際に起こる妖精達が引き起こした事件だということは、実際に妖精達が見える学者には判っていること。人間達が行う誘拐をチェンジリングと勘違いする事例もままあるが、チェンジリングが実際に起こりえることを彼はよく知っていた。つまり彼は、嘘を付いてはいないものの事実をあえて強調せず、「こういう話がある」という部分だけ、納得させる手段を選んで語っているのだ。
 何より、すぐ側で揺りかごの中スヤスヤと眠っている赤ん坊が、彼には人の子には見えていない。人でない者達を見ることの出来る彼の瞳は、赤ん坊の正体を既に見破っているのだから。見破られているのを承知しているのかどうか、赤ん坊になりすましている何者かは、自称学者を寝ているふりをしながらちらりとのぞき見、そしてにやりと口元を歪ませた。それを学者は見逃していない。
 ここまで判っていることとはいえ、ここで「この子は奥さんのおっしゃる通り、あなた達の赤ちゃんではありません」と言い切る訳にもいかない。そのようなことを言い出せば、妻の方はまだしも夫の方が彼をすぐに家から叩き出すだろう。
 面倒なことまた始めてるな、とでも思っているのか、肩に座ったピクシーは足をばたつかせつまらなそうにしている。彼女からしてみれば、事実をきちんと直接示さずわざと遠回りしながら解決させようとする学者のやり方がまどろっこしいのだろう。
「あるいは、子供が突然病死したりする哀しい事実を「妖精の仕業だ」とか「妖怪の仕業だ」なんて決めつけることで、子供を亡くした夫妻を慰め心身のケアを計っていた、という事もあったんです」
 まるで教壇に立ち生徒に文学の成り立ちを解説するかのよう。講釈だけを聞けば、なるほど確かに彼は「学者」だ。
「おわかりいただけますか?旦那さん。私のような伝承や伝奇を研究しているようなつまらない学者が、心療内科の先生から紹介を受けたのかを」
 多くの教授や先生方が教壇で熱弁を振るうその舌が滑らかなのも、熟知した知識と経験があってこそ。彼の舌が良く回るのも、ペテン師の才があるというよりは知識と経験によるところが大きい。つまりは、この手の説明を彼は何度も経験しているということ。
「……なんとなくは、な。しかし医者が駄目だったのに専門外の君で本当に大丈夫なんだろうね?」
 半信半疑、というところか。家主は訪れた学者の訪問目的を理解出来たが、しかし妻の病を治せるかどうか、という点に置いては疑ったまま。しかし学者にしてみれば、ここまで来れば説得に成功したようなもの。疑心暗鬼も文字通り「鬼」ならば、それを取り除くのも彼の仕事だ。
「ご安心を。担当されていた心療内科の先生も、そして私を紹介してくださった教授も、それ相応にご高名な方々だという事は旦那さんもご存じでしょう?少なくとも、お二人の名と経歴を汚さぬ程度のご助力はお約束致します」
 虎の威を借る狐のように威張り散らす訳ではないが、狡賢さなら狐のそれと大して変わらないかもしれない。他人の学歴や職歴を笠に着なければ何も手を付けられない歯がゆさは仕方ないと諦めてはいても、気持ちの良いことではないだろう。
「昔ならさー、フェアリードクターだって一言言えば尊敬の眼差しで見られてたって話なのに、今じゃスライゴーの片田舎に住む人にほんのちょびっと信じてる人がいるくらいさ」
 ニヤニヤ笑いながら、ピクシーのおしゃべりが始まった。
「それなのに日本人の多くは「先生」とか「教授」なんて人達には、かつてのフェアリードクターへしてきたみたいに敬うのね。おっかしぃの」
 ピクシーから見れば、学歴に弱い日本人は滑稽でしかないのだろう。しかし学者も日本人。己の肩に座りケタケタ笑うピクシーには、少なからず腹を立てたくなる。が、腹を立てたところで相手は妖精。怒鳴ったところで意味もなければ、今ここで怒鳴る訳にも行かない。出来ることは目の前の夫妻に気付かれぬよう胸の内で溜息をつくくらい。
「さて、多くの治療はまず原因を調べてから治療に取りかかりますが、今回のケースはちょっと特別でしてね」
 回り道をしてきたが、やっと本題へと切り込める。その安堵感からか思わず顔をほこらませるが、その様子を夫妻からすれば、自分達の子供に近づく学者が赤子に向けて微笑みかけているように見えるだろう。事実、彼は赤ん坊に対し微笑んでいたが、その微笑みの真相は夫妻が考えるような、それこそ微笑ましい理由ではない。
「いわゆる消去法って奴です。色々な方法を試し、この子が妖精なんかではなく人間の赤ちゃんであるという証拠を少しずつ立証していくんですよ。そうすることで、奥さんの中に眠っている母性愛を取り戻していく……と、そういう訳です」
 夫妻にこれから行う「儀式」の説明をしながら、揺りかごの中に手を入れる。目で「抱きかかえて良いか?」と許可を求め、うなずく二人を了解と捉える。
「かつての「魔女裁判」のような残酷な方法もあって……例えば火の上にかざしながらおまじないを唱えるなんて初歩的なものから、煮えたぎる鍋の中に卵の殻を十二個分加え、その鍋を火かき棒でかき混ぜながら棒を熱し、それを赤ん坊の喉元に押し当てる……などという方法もあるのですが」
 あまりにも残酷な手法に、夫妻は驚き一瞬学者の腕から子供を奪い返そうかと踏み出しそうになったが、そこまで非常識な手段はとらないだろうと踏みとどまった。伝承に残っている話とはいえ、それを実行してしまうほど赤ん坊を抱く彼が狂気じみているようには見えないことも踏みとどまった判断材料の一つだったであろう。なにより、彼が言う鍋や火かき棒など準備もしていない。卵十二個ならまだしも、火かき棒などこのセキュリティーの行き届いたマンションの住人には無用の物だ。
 だが、彼の話が冗談に聞こえない者もいた。
 泣くことも笑うことも忘れた赤ん坊が、学者の腕の中でビクビクと身構えている。どうにか正体がばれぬようにと身を強張らせているのが抱いた本人は直接感じ取っている。
「私達以上に意地悪よね」とは、肩から離れ少し離れたところで飛びながら制止しているピクシーの弁。
「まずは最もポピュラーで、最も簡単な方法から試しましょうか」
 赤ん坊を片腕で抱え、空いた腕で懐をまさぐる。
「さあ坊や、俺からとっておきのプレゼントさ。喜んでくれるといいが……お、あったあった。きっと大喜びしてくれるに違いないさ」
 笑いかける学者は、きちんとプレゼントを受け取ってくれるようしっかりと赤ん坊を抱き抱え直す。
「スライゴーの偉大な詩人、W・B・イエイツが保持していた妖精除けの蹄鉄さ。もちろん鉄製のな。嬉しいだろ?」
 懐から取り出した蹄鉄を、素早く赤子の頬に押し当てた。赤ん坊、もとい赤ん坊に化けた妖精はたまらず悲鳴を上げた。
 突然の悲鳴。上げている本人は当然だが、それを聞いている夫妻も驚愕している。頭の片隅に「もしや」とは思っていた、フェアリードクターなどといった怪しすぎる職業を名乗ったこの男が、自分達の子供に何か非道いことをするやもしれないという事。それが現実となれば驚きもする。だがそれ以上に、室内に響き渡る声に驚いた。まるで腐敗した川の底に貯まったヘドロのガスが声となって吹き出したような、眉をひそめたくなる程の酷くしわがれた声。
 それでも夫は一歩だけ踏み出している。声が赤ん坊から発せられるにはあまりにもおかしすぎるという疑惑が心に生じるよりも前に、自分の子供にこの訪問者が何か酷いことを行ったという現実がまず足を踏み込ませた。人道的な行為なのか父親としての愛情なのかは定かではないが、彼が踏み出した一歩は人としてごく当たり前の一歩であるといえよう。もちろんあまりにも衝撃的な出来事に一歩も動けなかった母親も、また人としては当然の事と思われる。
 むしろ、冷静に蹄鉄を赤子に化けた妖精に押し当てている学者の方が、見た目だけで言えば非人道的に映る。
 いずれにせよ、夫妻は瞬時には理解出来なかったものの赤ん坊が自分達の子供ではない別の者であることをこの時に確信した。
「クソッ、クソッ、この忌々しいフェアリードクターめ!この国にはお前らはいないはずだろ!外せ、その蹄鉄を外せ、俺の頬が焼ける、焼ける!」
 喋るはずのない赤子が罵倒と非難を繰り返す。
「おやおや、君は本物の妖精だったのか。こりゃ失礼。この国にはチェンジリングなんかあり得ないはずだと思っていたんだがね」
 白々しい、と眉をひそめながら夫妻には聞こえない声でピクシーが呟く。
「驚かせてしまって申し訳ありません、ご夫妻。未だにこの現状を全てご理解出来ないと思いますが、チェンジリングは実際にあることなのです」
 蹄鉄を妖精の頬から外し、学者は少しだけ説明を続け二人に落ち着けるだけの知識と時間を与えようと勤めた。
「妖精というと、ピーターパンに登場するティンカーベルのような姿をイメージされると思いますが……」
 わたしわたしと、学者に付いてきたピクシーが自分を指差しながら夫妻の目の前を飛び交うが、もちろん二人には見えていないので彼女の説明は全く意味がない。彼女は自分の意思で姿を現し常人でも見えるようにすることも出来るのだが、それは学者によって固く禁じられている。妖精がいる現実を受け入れざるを得なくなった二人の前ならば姿を現しても問題ないだろうが、彼女が突然現れた事で又驚き、余計な説明を増やさねばならなくなるのは明白だろう。だからこそ、ピクシーが何度も姿を現す許可を学者に求めても、彼は応じることなく夫妻への説明を続けた。
「実際は日本で言う妖怪とほぼ同じものなのですよ。この妖精は日本で言えば、小鬼のような存在ですかね。悪戯好きなのはまだいいのですが、時折度が過ぎる事があって困る」
 彼は言葉をそのまま小鬼のような妖精に向けたしなめながら、彼は本題へと切り込んだ。
「さて、小さき友人よ。本物の赤ちゃんはどこかね?」
 学者の言葉に母親が重大な現実……自分の子供が行方不明である事に気付き、「私の赤ちゃんは!」と叫び駆け寄ろうとしたが、学者が目でそれを制した。
「大きな友人よ、まずはその蹄鉄を仕舞ってくれ。話はそれからだろ?お前が紳士ならばな、フェアリードクター」
 ああもちろん、と学者は蹄鉄を懐にしまい込んだ。だがすぐに取り出せるし逃がす気はないぞと妖精を抱えた腕の力を強めた。
「さあ、赤ちゃんの居場所を素直に教えて貰おうか?君が紳士ならば」
 相手の言葉を嫌味にし返す学者に、苦笑いしながら妖精はそれでも素直に白状した。
「女王様のお膝元だ、懸命な学者殿。取り戻したければ直接面会して直訴するのだな、それが適うのなら!」
 挑発的な物言いに少なからず気分を害したのか、少し腕の力を強め妖精を苦しめると、交渉へと移った。
「もちろん案内してくれるだろう?」
 交渉と言うよりは脅迫と言うべきかもしれない。懐から蹄鉄を再び取り出しながらではとても平和的な交渉とは言えないのだから。

 フェアリードクターを名乗る以上、彼も妖精達が住まう不思議な空域……言うなれば妖精の国(フェアリーランド)があることは知っていた。だが直接その国にへと足を踏み入れたのは初めてである。
 本来、人間は入ることが許される国ではない。フェアリードクターであってもそれは例外ではない。ただ彼の場合案内する妖精がいることと、彼が妖精達にとって敵ではないことを証明する者……ピクシーがいるからこそ入国が許可されたに過ぎない。敵ではないと言い切れるかどうか、とは頬に蹄鉄で焼かれた傷を持つ妖精の弁だが、その傷が「悪戯」による結果ならば、証拠とはならない。
 色とりどりの花々が咲き乱れる妖精の国をしばらく歩き、彼らは蔓と花々で組み上げられた玉座の前まで辿り着いた。
 そこに至るまで、家も壁も扉も、無かった。ただずっと続く花々の平野があるだけで、玉座はその平野にぽつりと、しかし神々しく鎮座している。
「お目通り適い、恐悦至極に存じます」
 玉座に座る妖精の女王に対し、イギリスの女王陛下の御前で行うよう膝を曲げ一礼した学者。
「突然の訪問失礼致します、女王様。此度は折り入ってお願いがあり参上つかまつりました」
 慣れない言葉遣いを無理に使うもどかしさが、言葉と態度に表れている。自分でも滑稽だと思いながらも、懸命に礼を尽くす努力を行った。
 それは子供を取り返す為に。それもあるが、彼が膝を曲げてまで女王に頭を垂れるのは他にも理由がある。
「気を楽に。そこまでかしこまることもありません、私達の良き理解者よ」
 自分に付いてくるピクシーやチェンジリングを行った妖精とは全く違う、凛と気品ある声が優しく、しかしハッキリと学者の耳に届く。
「日本という地に、フェアリードクターを名乗ることの出来る者が現れたという話は聞いておりました。私も王も、あなたの出現を心より祝福しておりますよ」
 フェアリードクターは妖精から人間を守る為に学ぶ者達のことではない。確かに今回の件や過去の偉大なる同業者達は、妖精によってトラブルを抱えてしまった人々を救済している。しかしそれはあくまで人間と妖精の仲を取り持ち続ける為。彼らにとって妖精は良き友人であり、妖精達にとって彼らは自分達を理解して貰える大切な親友なのだ。だからこそ日本で唯一のフェアリードクターは、こうして女王に恭しく接しているのだ。
「さて、あなたのお願いとは、この子のことですね?」
 女王は自ら抱き抱えていた人間の子供をあやしながら学者に尋ねた。
「はい。恐れながら、その子は人の子。元の母親の所へと返してはいただけないでしょうか?」
 チェンジリングによって取り替えられた子供は、そのまま妖精の国で育てられるか、あるいは子宝に恵まれない夫婦の元へと届けられる。今回はどうやら、この国で育てるつもりだったようだ。
 余談だが、チェンジリングに気付かなれず人間の子供に化け続けている妖精の方は、まるで衰弱死したかのように見せかけた後にこっそり逃げ帰る手筈になっている。
「一つ尋ねるが、フェアリードクター」
 普段なら……少なくとも過去アイルランドで起きたチェンジリングでは、取り替えられた事に気付かれた場合、すぐに子供は帰ってきた。だが今回は様子が違う。悪戯をしかけた小鬼のような妖精が「返して欲しければ女王様の元へ」と言い出した事から何かあると学者はみていた。自分にとってチェンジリングは初めてのケースだっただけに始め妖精から告げられた時は戸惑ったが、それを悟られないよう勤めてきた。そしてまた、彼は女王の質問に戸惑う事になる。
「この子が人の世に戻ったとして、幸せになれると思いますか?」
 返答に困った。何故ならば、はいそうですと即答出来ないだけの要因が多々ありすぎる為に。
 答えに戸惑う彼の口が開くのを待たずに、女王の口が再び開いた。
「実はフェアリードクターよ、今回のチェンジリングがそなたの国で起こした初めてのチェンジリングではないのですよ」
 ずんと心を押し突かれるような衝撃が、女王の口から言葉となって学者に襲いかかった。よもや自分の母国でチェンジリングが数回とはいえ他にも起きていたという事実は衝撃的なことで信じがたい。まるでチェンジリングなどという言葉も知らずに巻き込まれたあの夫妻のように、すぐには理解出来ないでいる。
 確かに過去何度か日本でチェンジリングが行われていたとして、それを肯定する材料はないが否定する材料もない。つまりあったとしても不思議ではないのだ。今回のことも、たまたま子供の母親が掛かり付けた医者によって、学者のよく知る教授の耳に今回の症例が伝わり、結果彼が駆けつけることとなっただけ。運という巡り合わせが上手く働いた偶然に過ぎない。
 しかしやはり、そもそもはアイルランドで多発した、それも現在ではまったく見られなくなったチェンジリングが、遠く離れた日本で数件起こったのだろうか?その疑問は残る。
「近年、人間の間で我が子を手ひどく傷つける愚かしい事が多発しておりますね?」
 親による子供への虐待。耳の痛くなる事実に、学者は黙ってうなずき恥じるべき事柄を肯定した。
「子供が母親の手を煩わせるのは当然の事。にも関わらず思い通りにならないからと手を挙げる母親。確かに躾は大事でしょうし、時として手を挙げる事も当然。しかし自分のストレスのはけ口を子供に見出すのはいかがなものでしょうか?あまりにも常識から逸脱しています」
 溜息を交えながら、女王は言葉を続けた。
「信じられない事です。慈しみ育てなければならない我が子をどうして傷つけられましょうか?」
 女王は天を仰ぐかのように見上げ、嘆いた。どうして、と尋ねてはいるが、答えを学者に求めている訳ではないようだ。仮に求められても、彼には明確な答えは示せない。彼は同じ人間ではあるが、母親でも父親でもないただの学者なのだから。
「本来私達妖精が、あなた達人間の事に口出しすべきではない事は重々理解しております。しかし無垢な心を持つ子供達を容易に傷つける行為、とても見てはいられません」
 女王の嘆きを、学者は黙って聞き続けた。
「人間達の間でも、そのような愚かな振る舞い許すまじと、様々な手を尽くしている事も承知しています。ですがそなたの国はどうでしょう?少なからず努力している者達もいるようですが、無関心な者達があまりにも多すぎやしませんか?」
 無関心かどうかはさておき、積極的に手を貸そうとする人が少ないのは確かだ。人との接し方をどこかで誤っている今の日本人は、隣近所との間に高く厚い、しかし見えない壁を四方に張り巡らせている。その壁は見えないが確かに存在している。そう、見えないが確かに存在する妖精達のように。
「ならば、今こそチェンジリングによって子供を我々が得ても良いのではないか?人のように子供を身ごもらない我々としても子を儲ける機会。そう思いチェンジリングを行うよう私が働きかけたのです」
 すぐに子供が戻らない原因は、チェンジリングが女王直々の指示による異例のチェンジリングであった為。事件の全容はこれで明らかとなった。
 だが、解決までには至っていない。
「どうであろう、人の子であるフェアリードクターよ。この子を人の元へと返すよりも、我々の手で育てた方がこの子の為にも良い事とは思わぬか?」
 女王の言う通りかもしれない。人の世は今、子供達にとってあまりにも危険な世である。そしてここ妖精の国は、子供達にとって楽園となり得るだろう。
 だが、フェアリードクターは恭しくしかしハッキリと言った。
「恐れながら女王様。私はやはり、その子は人である母親の元へ返されるべきだと思います」
 女王は学者の言葉に驚きも落胆もせず、続く言葉を待つ。
「確かに仰せられる通り、人の世は、それも我が母国は、子供達に良い国とは言い難い面もあります。しかしながら女王様。子を愛し、立派に育てる母親も又多くいる事も事実です」
 少数の鬼畜めいた母親が目立ってはいるが、それ以上に良識的な母親も確かにいるのも事実。彼はそれを強く主張する。
「少なくともその子の母親は、チェンジリングに気付きました。それだけ我が子を愛している、母親としての愛を強く持った親である事の証ではないでしょうか?なれば、やはり子は親の元で育てるのが子の幸せであると存じます」
 フェアリードクターのように妖精を見る事の出来る目を持っていない普通の人々が、そうそう妖精を妖精だと判断出来るものではない。かの母親も妖精など信じてはいなかったし、学者が来るまでは妖精だと見定める事も出来なかった。しかし我が子ではないと、戸惑いながらもハッキリ感じる事が出来たのは、子に対する愛情の深さではないだろうか?昔アイルランドで発生したチェンジリングにしても、フェアリードクターが発見するよりも母親がチェンジリングだと気付きフェアリードクターに相談するケースの方が圧倒的に多かったという。つまり、チェンジリングを見抜くだけの愛が、母親にあるからこそチェンジリングを自力で感づけたのだろう。
 逆に言えば、今の日本ではチェンジリングに気付くだけの愛が足りない母親が多いという事にもなるのだが、その事は学者の胸の内に止め口にはしない。
「……判りました、我らの良き友人よ。この子はあなたを信頼し帰す事にしましょう」
 無邪気に微笑む赤子を女王が両手で差し出すのを、学者は膝を曲げたまま引き受けた。
「我らの大切な友人よ、しかしながら申しておきますよ」
 玉座に戻り深く座り直した女王が、釘を刺すように忠告する。
「此度はその子を帰しますし、またそなたが申し出るなら今後もチェンジリングにより連れてきた人の子は帰す事を約束しましょう。ですが、チェンジリングを止める事はありません」
 威厳を含めた女王の言葉に花々が揺れる。まるで彼女の言葉に妖精の国全体が賛同しているかのように。
「事実として、そなたの国で残酷な虐待が行われているのに変わりありません。なれば我々もチェンジリングを止める理由がありません。よろしいですね?」
 女王の言葉に、学者は深々と頭を下げ同意した。
「人として本来同意すべきではないのでしょうが、私は我が国の現状を嘆く者の一人として、そしてあなた方の良き友人であり続ける為、女王様のお言葉に同意致します」
 他の人々から見れば、彼の同意は非人道的だと石を投げられるだろう。人の子を人ではない者達に預ける事を容認するなど、正気の沙汰とは思われないだろう。だが、その人々が手をこまねいているならば、むしろ人よりも信頼出来る友人達……妖精に託すのもまた「手」の一つではないのか?彼はそう考えた。
 何も問題はない。母親の愛が本物であればチェンジリングに気付くはずだから。母という本能が鈍りつつある現在、その本能に鞭打ち再び目覚めさせるカンフル剤へとチェンジリングが成り得るならそれもいい。人の親でもないたかが学者が言う事ではないだろうが、少なくとも彼は自分の考えがそう間違えたものではないと確信していた。

「とにかく、無事解決出来て良かったんじゃないの?」
 ブンブンと飛び回るピクシーが、帰路につく学者に羽音に負けない声で話しかけた。
「なのにさ、なーんでそんな難しい顔してんのさ」
 眉間にしわを作ったままでいる学者に、ピクシーは尋ねている。しかし学者は彼女の問いに答える事無く黙って歩き続けていた。それは周りに人がいる為、不用意に返答できない……というだけではなさそうだ。
「へんなのー。女王様の言葉に納得したんじゃないの?だいたい仕事はきちんとこなしたんだし、あの夫婦だって喜んでたじゃない。私達妖精の事も黙っていてくれるって約束してたしさ、ねぇ、いったい何が不満なのよー」
 事は確かに、万事上手く解決した。
 無事子供を連れ帰った学者に、夫妻は涙ながら何遍も頭を下げ礼を述べていた。そんな夫妻に学者は、チェンジリングの事や妖精達の事を口外しないよう約束して貰っている。そして事件の再発を防ぐ為に、毎朝コップ一杯のミルクを台所の片隅に置くよう指示も出した。本来なら妖精の正体をはっきり見破る事に使用したあの蹄鉄を、妖精除け代わりに家のどこかに飾るだけでも良かったのだが、妖精に愛でられた赤ん坊は、今後も妖精に見守られるだろう。故に追い払うよりは妖精に感謝の意を表した方が懸命だとアドバイスしたのだ。コップ一杯のミルクは、御神酒のようなもの。家に訪れる妖精達への振る舞いなのだ。
 懸命な夫妻は、彼の助言を素直に聞き入れた。チェンジリングに気付くほど愛に満ちた母親なら信頼出来るだろう。その母親を愛する夫も同様に。その点に関して、心配は何もしていない。
 ただ、もし今後チェンジリングが起きたとして……いや、女王の口ぶりからして今後も起きるだろう……その時、どれだけの母親がチェンジリングに気付くのだろうか?チェンジリングだと知らずとも、どれだけの母親が違和感を感じるのだろうか?そして感じたとして、助けを求める声が自分の元にまで届くのだろうか?別に自分でなくても良いのだが、この国にフェアリードクターは自分しかいない。チェンジリングを気付きながら、子供を取り戻せない母親は不幸だ。例え連れ去られた子供が妖精の国で幸せに暮らしていくとしても。
 今回は偶然、自分の元に母親の悲痛な叫びが届いた。だが、この偶然がそう続くとは思えない。世間がチェンジリングについて認知しない限りは。かといってフェアリードクターという人間がいる事やチェンジリングの事を声高に世間に向け公表しても、真剣に聞き入れられるとは思えない。怪しい宗教団体に思われて終わるのは目に見えている。
 ではどうすべきなのか?学者はそれを一人悩んでいた。
「ところでさ、女王様がチェンジリングを行うように指示した家って、どうやって決めたんだろうね?」
 突然ピクシーから問われた疑問に、学者は足を止め彼女の方に振り向いた。第三者から見れば突然止まった学者が挙動不審に見えなくもないが、気にとめる人はいない。
「虐待を受けている子供とか、受けそうな子供を選んでいるのかなって思ったけど、でも今回のあの子はそんなんじゃなかったでしょ?なのにチェンジリングに巻き込まれちゃったし……それにさ、私の国で今人間の子供が育てられているって話も、聞いた事無いんだよねー。なんか変だよね?」
 そういう事か。ピクシーの話で、彼は事の真実を何となく見出せた。
 全ては、女王の思惑通りに事を運ばれていたのだろう。
 彼女はこれまでもチェンジリングを行っていたと言っていたが、それはおそらく偽り。そして今回のチェンジリングが始めて指示して行わせた特例で、今後もよほどの事がない限り……少なくとも女王直々に指示を出しチェンジリングを行う事はないだろう。
 今回のチェンジリングは、人間達への警告と、そして日本で唯一のフェアリードクターに会う為に仕組まれた事。おそらくこれが真相だと学者は考えた。
 女王本人も言っていたように、彼女はフェアリードクターに会う事を望んでいた。しかし悪戯好きの妖精の女王が、素直に招集するはずもない。そこで手の込んだ形で呼び寄せた……少し強引な考えかもしれないが、やりかねないだろうなと妙な確信がある。
 ただ、女王の言葉が全て嘘であった訳ではない。子供に対する虐待を危惧しているのは事実で、これ以上酷くなるようなら本当にチェンジリングを頻繁に行うだろう。妖精は純粋な子供が好きだから、この言葉に偽りはないと言い切れる。
 さて本当にチェンジリングが頻発することとなった時、人はどうするのだろう?
 もしかしたら、表面上何も変わらないかもしれない。目に見えない真実に気付くことがないなら、変わるきっかけも掴めない。目に見えない妖精達が巻き起こす事件を、目に見えないが存在していると信じている何か……例えば病原菌の大流行だとかにすげ替えるかもしれない。
 いや、チェンジリングを行う対象を、虐待を受けているかわいそうな子供達に的を絞って行うなら、チェンジリングだと気付かなくとも虐待の為に子供が蒸発、あるいは死亡したとされるだろうか。とすれば、チェンジリングがあったとしてもなかったとしても、結果は同じ……真実を知る学者以外の目には同じように映るという事か。
 どちらにせよ嘆かわしいことだ。学者はまた眉間にしわを寄せた。
 願わくば、親が親としての愛に、きちんと目覚めてくれる世にならんことを。仮に今の世がもっと酷くなったとしても、チェンジリングによって妖精の国へと導かれた子供達が幸せになってくれる事を。
「……俺がフェアリードクターになったのも、あるいは必然なのかね……」
 誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
 妖精達の友となれた彼は、友より人の醜い部分を知らされるだろう。これからもずっと、そして多く。それらをきちんと受け止め対処出来るかどうか……フェアリードクターとしての力量が試されるのはまだまだこれからのようだ。

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