ハルファス

「チェック・・・失礼、このゲームでは「王手」と言うのであったな」しわがれた声が縁側で勝ち誇る。眉間にしわを寄せ、俺は盤面を睨みつけながら唸った。「なかなかに面白いな、この東洋のチェスは。なんという名だったか?」「将棋だよ、将棋。いいから黙っててくれ」俺の王将、その右斜め前には、先ほどひっくり返り真っ赤な「と」の字を見せたばかりの駒がある。その駒ばかりではなく、周囲には敵陣の駒が二つ三つ陣地に進入していた。「敵陣に進入し変化する駒、そして取り上げた駒を我が方の兵として配置する・・・この変則ルールはよく考えられている。いや、実に面白い」黙っていろと言われてもしわがれ声は止まらない。「・・・これでどうだ」俺は「と金」を後ろに控えていた桂馬で取り除いた。これで当面の危機は免れたはず。「ふむ・・・貴公はそれなりに先を読める男だと買い被っていたが・・・残念だ」言いながら堕天した鳩は盤面の飛車を一つ羽先ですくうように持ち上げ、三マス横へ移動させた。「王手。我の読みでは、後六手でチェックメイト・・・「詰み」となるな」クルックーと鳩がまた勝ち誇る。
「ゲームとて、まして戦場を模したこのゲームならば尚更「戦術」は重要。戦術とはすなわち、先を読む力成り。状況、現状を把握し幾時も先を読めるかどうかが勝敗を決すが・・・まだまだ貴公には足りぬようだな」名人と呼ばれる棋士は幾手も先を読み幾つものパターンを分析すると言うが・・・ただの素人が、ましてや戦舞台を用意する事を好む堕天使を相手に戦術で勝てだと? 無茶にもほどがある。「・・・だから最初に言ったろ。「飛車角落ち」で始めようってさ」「何を馬鹿な! 教えを請う我に対し、師である貴公が不利益な条件を突きつけるとは・・・情けない」俺から言わせればな、底意地の悪い鳩よ。自分が勝てる戦場を作り出したいが為の方便だろうそれは。まあ・・・それに踊らされた俺も悪いわけだが。「戯れ言はよい。さあ覚悟を決め死地への旅路、その一手を紡ぎ出せ好敵手よ」鴨の間違いだろ? 鳩めが。俺は心中で毒づく。
何を言おうと何を思おうと、状況は変わらない。俺は黙り込み、この戦局をひっくり返すような一手は無いものかと考えあぐねた。相手は戦場における兵力の配備配置を得意としているだけに、どこにどの駒を配置すれば良いのか、その手の戦術に長けている。しかしだ・・・奴が得意としているのはそこまで。実戦における実力行使や奇跡といった類にまで力が及ぶわけではない。なにか、なにか手はあるはずだ・・・と、俺が凝り固まった思考と共に視線をふと盤面から庭へと移したとき、「予期せぬ戦力」に目がとまった。いつ頃からだろうか、その「特攻兵」は興味深げにこちらをじっと見ていたらしく、俺が彼に視線を移したときは既に目があった。次の瞬間には、もう彼は尾を振りこちらへ駆けていた。「・・・ああ、まさに「戦局がひっくり返って」しまったな」駒は飛び散り、将棋盤は脚を上と向けている。我が愛犬ヘルハウンドが、俺と目があった瞬間遊んでくれるものと思ったのか駆け寄ってきた。その結果が今眼前に広がっている。「貴公、よもやこれで終いだと申すつもりか?」勝ちを逃した堕天使が、負けを退けた俺にくってかかる。「しかたないだろ・・・事故だよ事故。ま、戦場には予測も出来ない事柄なんていくらでも起きるさ。そうだろう?」俺にとっては奇跡かな。好戦的な彼ではあるが、八つ当たりをするほど愚かではない。悔しそうな彼には悪いが、そもそも弱者をいたぶるような勝負を挑む方が悪かったと思って欲しいものだ。「・・・そうだな、「事故」では仕方あるまい。しかしその後始末くらいは付けるのが筋というものだぞ?」先ほどまでの形相が一変し、ある意味堕天使らしい不敵な笑みを浮かべる彼。その視線は俺からその上、そして俺へと戻される。何事かと振り返れば、そこには腰に手を当て俺を睨み見下ろすメイド長が。今気付けば、俺の服、廊下、そして愛犬の脚が泥だらけだ。ああそうか、昨夜はずいぶんと雨が降ったっけ・・・。「雑巾取ってくる・・・」立ち上がった俺の後ろでは、鳩が愉快そうにクルックーと笑っている。

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