スカアハ

優れたコーチというものは、飴と鞭の使い方が絶妙だという。目標となる飴をちらつかせ、そこへ向け鞭を振るう。鞭打たれるのに疲れてきたら、飴を見せるなり僅かに与えるなりして気力を回復させ、また鞭を打つ。これの繰り返しが基本だろう。「だがな、飴と鞭を使うには条件がいる」誰もが認める名コーチが、溜息をつきながら俺に語りかける。「やる気を起こせるだけの飴を用意できるか。そして鞭を打っても耐えられる基礎が出来ているか。当たり前のことだが、非常に重要なことだ」女性らしい柔らかな声に戦士の威厳を乗せ、彼女は腰に両手を当てながら俺を見下ろす。「腹筋、背筋、腕立てを各五十回。この1セットすら満足に出来ないで・・・なにがダイエットか」肺から血を吐くのではないかと思えるほど、俺は荒く荒く息をしていた。まだうまくその息は整わず、ぜぇはぁと苦しくもだえるだけ。「鞭の一振りで根をあげるとは、情けない。わざわざ影の国からわらわが出向いたというに・・・まさかそのような醜態をさらしたかったとでも申すか?」そんな羞恥プレイはお断りです。
「そもそも、お主の場合飴も鞭も選びようがない」再び溜息をつきながら、トレーナーが語る。「飴とはすなわち、目標や褒美。そもそもお主にダイエットをする意志なぞ皆無。根性という物も無いと来た。褒美も・・・残念ながら、わらわはお主が好むような美酒美人に詳しくないのでな」そこはリサーチしてくださいよ、などと思いながら、まだ激しく胸を上下させ俺は聞いている。「鞭にしても基礎体力の無いお主に振るえばこの有様。さて、どうしたものか・・・」腕を組み、名トレーナーが思案している。
しかしその思案以前に、俺はまず彼女に問いただしたいことがあった。「いや・・・そん・・・な・・・こと・・・より・・・」どうにか整ってきた息。しかし言葉は息ほど上手く口から出ていかない。「コーチを頼んだ覚えは無いと申すか? ふむ。確かにわらわはお主からこのようなつまらぬ用件を頼まれた覚えはない」言いながら、口元が僅かにつり上がる。「だがな、そなたの侍女より懇願されての。夕食前の、たかだか一時間を我慢できずソーセージ一本つまみ食いするような館主の卑しい性格を鍛え直し・・・いやいや、このままでは健康を害すほどに醜く肥えてしまうゆえ、健康のためにも是非にと涙ながらに頼み込まれてはな。うむ、そなたも心優しい侍女を持ったものだな」あ、あいつめ・・・白いメイド服を着た家付き妖精に、俺は殺意に近い物を感じずにはいられなかった。なにが健康のためにだ。ようするに、つまみ食いに対する罰則だろこれは。鬼教官も解っていて悪巧みに便乗しやがったな。
「さて・・・今宵はニスロク殿がわらわを持て成してくれるとのこと。確かお主も好きなビーフシチューだったか・・・ああ、しかし残念だな。お主はダイエット中につき今宵の馳走には有りつけぬか。体力がないのでは食事療法しかないしの」そっ、そこまでして・・・俺はニタニタと笑いながら去っていく影の国の女王を、寝そべったまま見送った。おのれ・・・このままですむと思うたか。目標に向かう気力も根性もないだと? ふざけたことを・・・いいか、俺にも意地ぐらいある。このまま這いつくばってでも、やってやるさ。ダイエットを? まさか。俺にはビーフシチューを喰らうという目標がある。ああやってやるさ! 俺の食い意地を舐めるなよ! 俺は自分の身体に鞭を打ちながら、ビーフシチューという飴の為にずりずりと食堂へ向かった。

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