ナイアード

「あなたが落としたのは、この金のパソコンですか? それとも、この銀のパソコンですか?」落ち込みガックリと四つんばいになっている俺に、泉の精が微笑みながら語りかけてきた。俺は顔を上げ答えた。「俺が落としたのは、極々普通の、ちょっとスペックが低能なノートパソコンだよ・・・」それを聞いた彼女は、更に笑みを深め言葉を続けた。「あなたは正直者ですね。そんなあなたにはこの金と銀のパソコンを・・・」「いるかぁ!」勢いよく立ち上がりながら俺は声を荒げ、彼女の言葉を遮るように叫んだ。「あのなぁ、全部が全部、液晶の画面からマザーボードまで金や銀で出来てるそれはな、パソコンって言わねぇんだよ!」強いて言うなら、ノートパソコンに似せた、金と銀の置物か。全てが同一の素材で出来ているそれらに、どう考えてもパソコンとしての機能があるとは思えない。「・・・我が儘な方ですねぇ」「そーいう問題じゃねぇよ!」本人に悪気はないんだろうが、落ち込む俺に追い打ちを掛けているとしか思えない。
「あの・・・あなたが落としたパソコンならここにありますが・・・」僅かに怯えながら、彼女は俺が泉に落としたパソコンをおずおずと差し出した。「・・・やっぱりダメかぁ」それを受け取り、俺は電源を入れてみようとしたが・・・完全に水につかったパソコンがまともに動くはずがない。俺はまたガックリと膝を落とし、そして地に手を突いた。天気が良いからと、木陰で原稿を書こうなどと顔に似合わない洒落たことをしようなんて考えがまずかったのだろう。似合わないことはするものではないな。
「今まで色々な方を見てきましたが」泉の精は静かに語り始めた。「金でも銀でもない、と答える人全てが正直者というわけではないのですね」これまでに会った人々を思い出しているのだろう。まぶたを閉じ軽く首を傾けながら彼女はそう語る。「まぁな。例えば今の俺だな」苦笑混じりに、しかしいたって真面目に俺は答える。言い伝えによく登場する「斧の青年」もそうだが・・・いや、彼の場合正直者でもあったわけだが・・・落とした物に、金や銀にも代え難い価値があるからこそ「金でも銀でもない落とした物を」望むわけだ。そしてその望みは、正直故に発せられた物ではない、ということ。そして俺が惜しんでいるのは・・・「金や銀にも代えられないんだよ。消えちまったデータはさ・・・」データはまた同じように打ち込めば良い、と考える人もいるだろう。しかしそこに費やした時間と、そしてその場でしか思いつかなかったアイデアは戻っては来ないのだ。忘れていることも多く全く同じ物を打ち込めと言われても不可能。それを考えると落ち込みもする。「ま、昨今のデジタルデータはそれだけじゃないし」例えばデジタルカメラのデータ。そこには画像データというだけでなく思い出も詰まっている。他にも日記やスケジュール,ゲームのセーブデータなんていうのもある。個々の物品にも込められてきた思い出は、今の時代0と1で構成されたデータにも込められるようになってきた。「簡単に複製できて保管が安易になった分、消えるのも一瞬だからなぁ」幸い、俺はデータのバックアップをこまめに行っている上、メインPCはデスクトップだったため被害はまだ小さい方だ。
「でもなぁ・・・〆切明日だってのに・・・」そもそも、わざわざ外で原稿を書こうなんて思いついたのは、煮詰まった頭をほぐすために気分を変えたかったからだ。それが裏目に出てしまった今、さてどうしたものか・・・時間的に、今から不休で書いても間に合いそうにない。確実に原稿を落とすことになりそうだが・・・。「あの、一つお尋ねしても宜しい?」頭を悩ませている俺に、彼女がそっと問いかけてきた。「あなたが落としたのは、金の原稿ですか? それとも銀の原稿ですか?」

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