ザントマン

人は幾度も、乗り越えなければならない「壁」が訪れ、そして乗り越えていくものだ。俺も何度か壁を乗り越えてきたが、今まさに、新たな「壁」が間近に迫っていた。「無理はせん方がええぞ? 乗り越えなくて良いから、素直になったらどうじゃ」俺を誘惑する声が聞こえる。声は目の前、というより手元から聞こえてくる。「さあ、いいかげんこの手を止めてベッドに向かえ。お主はちと無理しすぎじゃ」うつらうつらと閉じては、ハッと我に返り見開くまぶた。その時チラリと見える小さな小さな老人。砂袋を背負うこの老人こそ、声の主にして俺が乗り越えなければならない「壁」である。「いや、せめてここだけでも書き上げたいんだ・・・後少しだからさ・・・」もうろうとする意識の中、俺はぶるぶると頭を振りどうにか意識をハッキリさせようと試みる。だが、目の前の壁・・・睡魔は、ますます俺の意識を飲み込んでいく。
「後少しに何時間掛ける気じゃ、まったく。そもそも、そんな状態で何が書けるというのじゃ?」小さな老人が言うことはもっともだ。それは判っているのだが、区切りの良いところで中断したいだけ。ただ、その「区切りの良いところ」がどのあたりなのか、ちょっと見当が付かないだけの話。「ほれ、手がもうピクリとも動かせんじゃろ。いいからベッドに向かえ」「いや、俺ベッドより・・・布団派だからさ・・・」言い訳にならないへりくつが口をつく。これは確かにもう限界だ。俺は最悪の事態にならないよう、最後の気力を振り絞り、データを保存する。「これで・・・いいや・・・」俺はそのまま、キーボードの上に顔を押しつける。
まぶたが重い。おそらくあのちっちゃい老人がどっかとまぶたの上に座っているのだろう。もう開けることは出来ない。「これで何度目じゃ。毎夜毎夜学習せん男じゃな」老人の小言を聞きながら、俺の意識は薄らいでいく。毎夜繰り返すパターンからすると、翌朝風邪を引き、シルキーにだらしないとどやされるはずだ。嫌だなぁと思うものの、それでも繰り返すのだから始末が悪い。「セーブする・・・だけ・・・ま・・・し・・・か・・・」繰り返す中、データの保存だけは忘れないようになった。そんなところだけ学習するなら、早め早めの就寝と、それ以前に〆切など余裕を持てるようちゃんとスケジュールを組むとか、生活全般を見直すべきなんだろうなぁ。という反省は、完全に意識が無くなるまでの間だけ。次にまぶたを開けるときには忘れているだろう。「図体デカイだけの子供じゃな、まったく」それに反論する気力も、もう俺にはなかった。

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