スキュラ

「見て下さい見て下さい、ほらほら!」廊下を、俺に声をかけながら駆けてくる女性。いや、雰囲気だけで言えば確かに「パタパタと駆けてくる」という描写が似合いそうなのだが、実際には・・・なんと形容すればよいのだろうか? 「十二本のタコのような脚で」駆けてくるその様子を、どう日本語で表せば良いのか、俺には見当も付かなかった。
「ほらほら、作って貰ったの。可愛いでしょ?」愛らしい少女が可愛らしく挨拶をするかのように、スカートの裾を両手で軽くつまみ、こちらへ微笑んでいる。それだけなら本当に愛らしいのだが、そのつまんだスカートの下には、十二本の脚の他にも六つ蛇の頭がシューシューと蛇独特の呼吸音を奏でこちらを睨んでいる。「・・・うん、よく似合ってるよ」「えへへ、ありがとー」俺は下の蛇たちには一瞥もくれずに、笑顔の女性と目を合わせた。かの海神グラウコスが愛した女性だけはある。その笑顔には引き込まれる程の魅力があり、身につけた服も相まって俺の胸を高鳴らせている。その一方で、本人では完全に制御出来ない六つの蛇頭が何時俺の脚を噛みつかないかと俺の胸を別の意味で高鳴らせている。
「で、なんだってその服なんだ?」俺は黒を基調としたその服・・・メイド服を何故選んだのかを尋ねた。「ん? シルキーが着ているの見てたら着てみたくなっちゃって。アルケニーにお願いして作って貰ったの。シルキーのは白いけど、本当は黒が基本なんだってね」暖かくなってきた今の時期には少々厚着に思われる、長袖のワンピースに白いエプロン。そして白のヘッドドレス。まさにオーソドックスなメイド服。服の好みは人それぞれだが、好きな人ならば一度は着てみたいと思うものなのだろう。そのあたりの女心は俺にはよく解らないが。「それにほら、こういうの好きでしょ?」それを言われると身も蓋もない。男心は女心より単純故、あっさりと見透かされてしまう。「そらまぁ・・・どちらかと言えば好きだけどさ・・・」「でしょ! 良かったぁ、喜んで貰えて」満面の笑みが見られるのならば、見透かされるのも悪くはない。俺を喜ばせる為に着ているのではないのだが、「喜んで貰って」などと言われると、何か勘違いをしてしまいそうだ。そういうところも、本当に男は単純だなとつくづく思う。
それにしても、本当に愛らしい。それだけに、海神に惚れられさえしなければ美しい女性のままでいられたのに・・・。もっとも、美しいからこそ惚れられ、今の姿になったのだから・・・世は皮肉に満ちあふれている。
「ねね、しばらくこれ着てシルキーと一緒にメイドしてあげようか? なんなら、「ご主人様」って呼んであげようか?」突然の申し出に、俺は急速に顔が熱を帯び真っ赤になるのを自覚した。普段メイドと共に生活してはいるが、そのメイドは従順とはほど遠い存在。それだけに、ある種男の憧れを演じてくれると申し出てくれているのだ。胸は飛び上がらんばかりに速く強く高鳴っている。「遠慮無くお申し付け下さい、ご主人様」身を少し前に倒し、うやうやしく頭を下げる。その仕草と言葉に、俺は今にも飛びつきたくなる衝動を抑えるので精一杯だった。「とりあえず・・・」主人らしく、俺は一つ彼女に申しつけた。「その・・・足下の蛇たちをどうにかしてくれないか?」飛びつかなかったのは、理性の勝利と言うだけでもない。シューシューと威嚇する蛇たちは、近づけばすぐにでも食いかからんと身構えていた。彼女を抱きしめるならば、せめて六つの命を犠牲にしなければならないだろうが、あいにく俺は一つしか持ち合わせていない。(こういうのをまさに「蛇の生殺し」とでも言うのだろうか・・・)目の前には輝かんばかりの笑顔があるというのに。俺は海神グラウコスの気持ちが今習いたい程によく解る。

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