ニスロク

「これは君が今まで食べたどんな料理より、数段美味しいはずさ」と、彼は一皿の料理を俺の目の前に置いた。
「心配しなくて良い」と、俺の顔色をうかがいながら、彼は続けた。「材料に『禁断の果実』は使っていないさ」
地獄の料理長と呼ばれている彼の料理は、間違いなく絶品だろう。だから怖いのだ。堕天使である彼が作る料理だから。
「麻薬と同じだろう。これを食べたら、俺は君の料理なしでは生きていけない、腑抜けになってしまう」そう言い、俺は料理を突き返した。その行為に至るまでに俺は、何度料理の魅力に負け、料理を引き戻し食べてしまいそうになったことか。
「それは残念だ」彼はさも惜しげに料理を片づけた。俺がまだ物欲しげにその料理に見とれているのを知りながら、じらすように、ゆっくりと。
「ところで、その料理はどんな味がするんだい?」たまらず俺は訪ねてしまった。そしたら奴め、にやりと笑いながら説明した。「今君が一番欲している『欲』の味さ」
欲の味? 俺にはその意味する事がよく判らなかった。「この料理は食べる者によって味が変わる」と、彼は俺に説明を始めた。
「人は、欲を糧に生きているのさ。この料理はその欲で作られている」自信作をわざと俺の目の前にちらつかせながら、欲におぼれ堕落した天使の講釈は続く。「だからこれは『食欲』。そう、欲を食す為の料理。欲は人によってまちまち。ならば味もしかり」ことりと、皿を再び目の前に置いた。
「麻薬ではない。我が親愛なる友よ。確かにこの料理は甘美で、忘れ得ぬ味となるだろう。だが友よ、この料理を食べずとも、結局君はこの料理を常に求めているのだよ。なぜならば、これが君の『欲』そのものだからだ」自然と、俺はナイフとフォークを握っていた。
「欲を求めるのは悪しき事ではない。欲することの何が悪なのだ? もっとも、欲する手段にまで我ら堕天使が口を挟む事ではないがね」己の言葉に自照しながら、元天使は人間を語った。
「今日はたまたま、その手段を『食欲』として、我らの良き理解者である同士に分け与えたにすぎんさ」彼の説得に屈したのか、目の前の『欲』に屈したのか、俺には判別できなかった。彼の言葉半ば、料理にナイフを入れていた。
確かに、忘れられぬ味だった。だが、当初の心配はない。常にこの料理が欲しいとは考えなかった。
ただ、あれから俺は、貪欲な性格になったと自覚していた。『欲』の味に、結局俺は溺れたのだろうか?
「それは違う」と、友は語った。「貪欲などと低俗な言葉を使って欲しくないな。ふむ、そうだな。今の君ならば、『向上心』とでも言ってくれたまえ」
俺は今でも、あの味を求めている。

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