novel

No.19 ブラックペーパー

 心臓が口から飛び出さんばかりに緊張する。
 比喩として用いられる表現だが、実際に心臓が口から飛び出るなどという事はない。
 今、一人のハニュエールが、その緊張の真っ直中にいる。この緊張を表現するならば・・・あり得ないが、やはり「心臓が口から飛び出さんばかりに」としか言いようがない。
 しかも彼女は、その緊張を悟られるわけにはいかなかった。のど元へこみ上げ飛び出しそうになる心臓を、無理矢理飲み込み演技を続ける。
「しかしよく戻ってこれたな、アナ」
 一人の男が、ハニュエールに話しかける。その刹那、のど元にある心臓がまた飛び出そうとしたが、それをなんとか押し留める。
「うん。監査なんて大したこと無いよ。それより、またやろうよ、アレ」
 アナが「監査」などという単語を使うだろうか?「アレ」なんて抽象的な言い回しでごまかせただろうか?
 自分の言葉一つ一つにすら、ドキドキと緊張を増す活性剤のように、心臓を刺激する。
「そうだな・・・アナ、俺たちはちょっと話があるから、ここで待っていてくれ」
 そういって、男達は女性から少し離れ、なにやら相談を始めた。
 緊張の糸がほぐれる瞬間。
 だが、油断は出来ない。おそらく彼らは、自分達の事を保安部に話したアナを、これ以上放っておくわけがない。その為の「始末」と、その後の「取引」について話し合っているのだろうから。
「今のうちに・・・」
 女性はBEEを通じて、メールを送った。姉をそそのかした連中と接触中だ、と。

「すまねぇ!「こいつ」の面倒を頼む!」
 まるで子猫をつまみ出すように、アナの首根っこをつかみ、ぐいっとノルの前につきだした。
「ちょっと、どうしたのよ急に」
「痛いよお兄ちゃん!」

 二人の女性から非難されるZER0。その慌てぶりから緊急の事態に陥っているのは判るが、それにしても唐突で、すこしばかり乱暴すぎる。
「説明は後でする。ちとラグオルに降りるからアナが邪魔なんだ。それじゃ頼むぜ!」
「邪魔ってひどいよぉ!」

 さらなる非難を聞きもせず、ZER0は駆け出し行ってしまった。
「なんなのよもぉ・・・どうして私が、こいつの面倒を見なきゃいけないのよ」
「ぶぅ〜! アナだってお兄ちゃんと一緒にいたいもん!」

 仲が良いとは言い難い二人の討論を背中で聞きながら、ZER0は先ほど送られてきたメールを再度確認していた。
『今私は、ハンター失踪事件の黒幕と思われる人物に接近しています』
 メールの出だしは衝撃的な事実から始まった。しかしその後には、さらに衝撃的な事実が書かれていた。
『その人物とは、「ブラックペーパー」と呼ばれる武器商人。姉をそそのかしたのもこの男です。詳しいことは後で説明しますが、私は今、その男と行動を共にしています』
 メールの差出人は「ブラックペーパー」をよく知らないのだろう。しかしZER0は、そのブラックペーパーが個人ではなく組織である事を知っている。「姉をそそのかした悪党」のつもりで彼女が近づいた男は、「政府の裏組織として暗躍する極悪集団」の一人に過ぎない。これはあまりにも危険だ。ZER0にはそれが判っている。だからこそ取り乱しもする。
『お願いです。急いでここまで来てください。場所は地下洞窟の外の見える大空洞。もう少しで、取り引きが行われる予定になっています。彼を捕らえるなら今しかありません。お願いします! クロエ・ウェインズ』
「早まるなよ・・・頼むから・・・」

 言われるまでもなく、ZER0は急いでいた。そのためか、彼は周囲に気を配る余裕がなかった。
「いたっ!」
 軟派師ともあろうものが、女性に思い切りぶつかるなどという失態をしてしまったのだ。
「すまねぇ! 急いでたもんで・・・ん?」
「もぉ、気を付けてよ・・・あら、キミか」

 出会ったのは二度目だったが、お互いに印象が強かったのか、名前こそ知らないが、以前名前を間違い間違われた相手だとすぐに判った。
「なに? 今度はぶつかって気を惹くやり方で行くの? 相変わらずベタなナンパね」
 くすりと、軽く握りしめた右手で口元を押さえるよう微笑む。その仕草はとても魅力的で、慌てていたZER0の思考を釘付けにするほどだった。
「あ、いやそんなつもりじゃ・・・すまねぇ、本当に急いでるんだ。この埋め合わせは絶対するから、それじゃ!」
 一瞬見とれはしたものの、すぐに現状を思い出し、また慌てて駆け出していった。
「気を付けなさいよぉ!」
 見送りの言葉をかけながら、女性はじっと、ZER0の背中を見続けていた。
「ホント、気を付けなさいよね・・・」
 ぽつりと、独り言のように警告する。もちろんZER0の耳には届かないが・・・。

 湿気は人に不快感を与えるだけでなく、自然ならではの芸術を生み出す事もある。
 今クロエがいる一角では、湿気・・・つまり空中に散布された数多の雫が、光の屈折を巧妙に歪ませ、「虹」という芸術を生み出していた。
 虹は誰の心にも安らぎを与えてくれるものだ。しかしそれは、心にゆとりが持てる時だけ。今のクロエに、虹を楽しむゆとりなどあるわけもなかった。
「ネェネェ、どこまで行くのぉ?」
 不安が、余計な事を口走らせてしまう。下手に刺激し、彼らの「予定」を早めてしまう引き金になりかねないというのに。
「そうだな・・・そろそろ良いだろう」
 自分の失態に気が付いたのは、男の台詞を聞いた時だった。
 しまった。そう思ってももう遅い。かといって今取り乱すのは得策ではない。ギリギリまでアナとして演技を続けなくては・・・その上で、ZER0が到着するまでの時間を稼がなくてはならない。
「ここでやるの?」
 何をアナがしていたのか、話は聞いていたが具体的な事は良く知らない。故に抽象的な表現しかできないが、アナ自身が元々抽象的な表現しかしない事がクロエの救いとなった。
「ああ、ここでやろう」
 いよいよ、男達は本来の目的である「始末」を始めようとしている。それはクロエも肌で感じ取った。その肌はわけもなくビリビリと嫌な痛みを感じる。自然と身が固まっていくのが自分でも判る。
 もっと時間を稼がなくては。しかし次の言葉が出てこない。何かを言わないと。何か気を逸らさないと・・・。恐怖が思考を鈍らせ、生への執着が思考を活性させる。
 何か・・・何か・・・。
「見つけた!」
 クロエを救ったのは、男の一声だった。
「ZER0さん・・・」
 安堵がクロエに演技を忘れさせたが、ZER0の登場に驚いた男達は、その事に気が付く事はなかった。
「何者だあいつは」
「あ、アナを見張ってる嫌な奴だよぉ!」

 ここでZER0と合流した方が遙かに安全だ。しかしそれでは、この先でブラックペーパーと取引を行う他の仲間全員を捕まえる事は出来ないだろう。ならばZER0には申し訳ないが、演技を続けておく必要がある。
 命の危機が去ったからとはいえ、クロエは瞬時にここまでシミュレートしていた。それだけクロエは、アナと正反対に頭が切れるのだ。
「ちっ。トンズラー! 始末してこい」
「アイアイサー!」

 始末。そう聞いてZER0の身を心配はしたが、今更後には引けない。そしてなにより、ZER0はアナを軽くあしらえるほどの実力者。ならば今は演技をし続ける事に専念した方が良いだろう。
「行くぞ」
 リーダー格の男に従い、クロエは後ろ髪引かれながらも逃げ出した。
「待て!」
 クロエが男達の後に付いていく。彼女がアナを演じているなどと知るよしもないZER0から見れば、その光景は拉致されているようにしか写らなかっただろう。
 それ故、ZER0の心に怒りの灯火がついた。
「おい、お前!ここから先は行かんほうが身のためだぞ」
 そんな男の台詞なぞ、ZER0が聞く耳を持つはずもない。
「どけぇ!」
 ZAN!
 フォトン加工されていない実刀が、男の腹を横一線切り払う。
「ぐあっ!・・・油断・・・した」
 峰打ちのつもりではなかったが、さすがに一太刀では致命傷にはならない。かえってそれが峰打ちと同様の効果を生みだしていた。男は崩れ落ちるように倒れ込み、そのまま気絶してしまった。
「ちいっ! クロエ!」
 マップレーダーで場所を確認する事も忘れ、ZER0は走り出した。

 彼らの「取引」がどのようなものだったかは定かではない。しかし今までの失踪事件でアナが「気絶したハンター」を引き渡していた事を考えると、クロエがまだ平然としている事は取引として不自然なのだろう。下の階層で待ち受けていたブラックペーパーの取引相手・・・いや、実はこの取引相手がブラックペーパーなのかもしれないが・・・彼はクロエを見て、取引にトラブルが発生している事に気が付いたようだ。
「こいつの監査役が追いかけてきた。場所を変え早急に取引をすませよう」
 リーダー格の男の提案に、取引相手も合意した。
 クロエの危機はまだ去ってはいない。演技は継続しなければならない状況だ。男達の会話の意味を理解しながらも、理解していないフリをする。それは恐怖と動揺に身が震え出すのを押さえるという、非常に大変な演技を要求される事を意味している。
「アナ、心配するな。あいつは俺たちがなんとかする」
 それでも多少の動揺は出てしまったのだろう。しかしそれを男達は勘違いし受け止めていた。よもや、彼らがアナだと信じている女性が双子の妹だとは思いもしなかったのだろう。多少怪しいと思ったとしても、双子だと知らなければ「実は双子なのでは?」と疑う者は普通いない。
「!!! 奴が来ました!」
 取引をする間もなく、ZER0はすぐに追いついた。
 ZER0の実力を知らない彼らにとって、こうも早く追いつかれるとは予想外だった。その動揺が同じ失敗を繰り返させる。
「トボッケ、やれ!」
 護衛を一人だけZER0にあてがい、自分達は逃走する。護衛一人では、ZER0の相手はつとまらない事に気が付くよりも、とにかく逃げる事を優先してしまった判断ミス。小悪党にはありがちな単純なミスだ。
 しかしこのミスはまた、別のミスへと繋がる。これはさすがに小悪党でなくとも予想外のミスではあったが。
 Shoom!
 突然、フォトンの刃が背後から飛び込んできたのだ。
「何!?」
 振り返ると、そこにはスライサーを構え立つアナ・・・いやクロエの姿があった。
「・・・お前・・・! アナではないなっ!?」
 気が付いた時は、もはや手遅れ。クロエは黙ったまま、スライサーから刃を解き放ち、姉を謀った者たちを一掃していく。
「ぐあっ!」
 逃げる事しか考えていなかった商人と取引相手は、何の抵抗も出来ぬまま、クロエの復讐にあっさりと屈した。
「・・・くっ。私を たばかるとは・・・!」
 捨て台詞も虚しく、人を謀る事で私腹を肥やしていた男は倒れた。
「クロエ!」
「ZER0さん・・・」

 もう演じる必要はない。ZER0の姿を見る事で、そのことを悟った。
「またお世話になっちゃいましたね」
 笑顔でZER0を向かえ、来てくれた事への感謝を述べる。
「無茶するぜ・・・俺が来なかったらどうするつもりだったんだよ」
 小言を言いながらも、クロエの無事にZER0も自然と笑みがこぼれる。
「どうしてもこの二人を取り押さえたかったので・・・ZER0さんが護衛の二人をひきつけてくれたので、二人を取り押さえられました! ありがとうございます」
 引きつける事になったのは結果論だ。そこまでクロエも計算していたわけではないだろう。もちろんZER0が来た事も確実性があったわけではなく、よくよく考えるとクロエの計画はZER0が言うように「無茶」が過ぎた。そういう無鉄砲さは、ある意味姉妹とも良く似ている。
 しかし不思議と、クロエはZER0が来てくれるものだと根拠のない確信を持っていた。それはクロエにもよくは判らないのだが。
「あんなメールでホントに来てくれるなんて・・・」
 その事に、今更ながら気が付いた。そう思うと、急に脚が震えだしてくる。
 危機は去ったが、去った安心感が冷静さを取りもどし、恐怖を呼び戻す。
「ま、無事で良かったぜ」
 クロエの動揺を見取ったZER0は、慰めるようにポンポンと頭を軽く叩き、なでる。クロエはアナと違い大人だが、どうしてか、ZER0はクロエをアナのように優しく接してやりたかった。
「ごめんなさい・・・このまま・・・・・・」
 唐突に、クロエはZER0の背中へと腕をまわししがみつき、胸元に顔を埋め、そして・・・。
「うっ・・・うぅ・・・あぁぁぁぁぁ・・・・・・」
 クロエもアナ同様、一流のハンターだ。だからこそ、任務中は恐怖を何とか克服できたかもしれない。しかし安堵感と、その為に後から訪れた恐怖が、彼女にハンターである事を忘れさせた。
 今は只、頼れる男性の胸元で、不安だった自分を吐き出したかった。
(・・・前にもこんな事があったような・・・)
 そんな事をふと思い出しながら、しかし今はクロエのために、優しく髪をなでながらつき合う事にした。

「私たち、孤児だったんです・・・」
 ギルド本部へ帰る途中、クロエは自分達の生い立ちを語り始めた。
「ハンターをして稼いではいますが、渡る世間は冷たくて・・・」
 孤児という事もあるが、世間はニューマンに対してある種の偏見を持っている。
 バイオ科学で生み出された人間。
 理由はそれだけで十分だった。
 現在はヒューマン同様の地位を法で保証されてはいるが、だからといって簡単に偏見が無くなるわけでもない。不当な差別を所々で受ける。それが日常になってしまっているニューマンも少なくないはずだ。
「やつらもそこに目をつけて、姉をそそのかしたんでしょう」
 実際、犯罪に手を染めてしまうニューマンは多い。それは世間の不当差別が生み出した悲劇だが、当のヒューマン達に、その自覚はない。あれば差別などしないだろう。
「ずっとアナにひっつかれてて判ったけど」
 慰めるつもりで、しかし正直な感想をZER0は話す。
「あいつは、良くも悪くも純粋すぎる。自分に素直すぎると言うべきかな。だから騙され易いところもあったんだろうよ」
 だからと言って、アナのやった事は許される事ではない。そしてまた、ニューマンに対する偏見が生まれる。
 アナが純粋すぎるからこそ、クロエはアナが傷つくのを極端に恐れ、今までかばい続けてきた。その結果がアナの幼稚的な思考を引きずる事になり、今回の事件へと繋がった。そしてまた、クロエはアナのために命を張り罪を償った。
「まぁ・・・がんばれ」
 下手な慰めしかできない自分に腹が立つ。
「・・・だいじょうぶです。負けません!がんばります!」
 しかしクロエには、ZER0の思いやりがしっかりと伝わっていた。
「しっかし、いくら双子だからってよくだませたよなぁ」
 話題を切り替える事で、ZER0はしんみりとした場も切り替えようとした。
「気がつかれたらとヒヤヒヤだったけど、きっとZER0さんが来てくれると信じてましたから」
 ほんのりと頬を赤らめながら、上目遣いでZER0を見上げる。その仕草に、思わずZER0の頬も赤くそめてしまう。
 そしてギルドに着くまでの間、二人は無言だった。
 言葉を発する事が出来ない。発する事でこの雰囲気が崩れてしまう事を恐れるかのように。
「あ、クロエぇ〜! お兄ちゃ〜ん! お帰りぃ〜!」
 二人のムードを一変させたのは、ギルドで待っていたアナだった。
「お帰り。無事だったみたいね」
 そして託児所代わりのノルも、ギルドで二人を待っていた。
「悪かったな。無理矢理押しつけて」
 事情も話さず問題児を押しつけたのだ。そうでなくともノルとアナは仲が良いどころか、どちらかといえば悪い方なのだ。気を悪くして当然だろう。
「ん〜、別に大したことじゃないし」
 しかし、ノルの反応はZER0の想像とは全く違っていた。
「ふふ〜ん♪ ねぇ、お姉ちゃ〜ん!」
 しかも、アナがいつの間にかノルになついていた。そしてノルも笑顔でそれに答えている。
「・・・どうしたんだよお前ら」
 ある意味で、ZER0にとってこの変わり様は不気味だった。
 何か企んでいるのでは?
 軟派師とはいえ、いや軟派師だからこそ、この反応に意味もなく脅えてしまう。それは男としての性か?
「何があったかは後でゆっくり聞くけど、とりあえずその二人をギルドに引き渡してきてよ。ああ、クロエは残ってて」
 一方的に、ZER0へ事の後始末を全て押しつけ、クロエを交えて女三人だけが場に残った。
「と・こ・ろ・で! ねぇ、クロエ。お兄ちゃんの事、どう思う?」
「え!?」

 突然の姉の質問に、その真意を測るより早く赤面してしまった。それが二人にとっての「答え」となった。
「やっぱりねぇ。双子だと好みも似るものなの?」
「どうかなぁ。あんまり男の人の話になったことなかったしなぁ」
「ちょっ、二人とも、何の話?」

 裏の取引を一つ潰した、さらにその裏で、ZER0の知らない別の裏取引が始まっていた。

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