親子の絆〜二口女の章〜

 妖精学者として問われる「知識」と「技術」は、数も量も膨大だ。
 本場であるイギリスやアイルランドの妖精学者は、地元地域の妖精に関する知識や彼らとの友好関係に欠かせない呪(まじな)いや薬草学を学んでいた。当時はそれ「だけ」で事足りたらしい。
「ねぇタカちゃん。今度は何のお勉強?」
 机に向かい懸命に学術書を見入っている一人の学者に、小さな、とても小さな彼の友人が話しかけてきた。
「薬剤師の資格試験。邪魔だからどっか行ってくれブンブン」
 専門書にみっちりと詰まった文字列。そこに目を通すだけでも集中力を必要とする作業なのだから、年中暇を持て余している小さな友人・・・ピクシーの相手をしながら片手までで切る事ではない。
「ぶぅー、ブンブンじゃなくてリンリンよ!」
 何十・・・いや何百とやりとりされた会話。周囲を「ブンブン」と飛び回るからという理由で名付けた名前が、ピクシーには気に入らないらしい。
「私は、鈴の音のように綺麗な音で飛ぶの。だからリンリン」
 トンボの羽根をブンブン言わせながら、彼女は主張した。
「どっちでも良いから邪魔しないでくれ。それとも俺に用か?」
 大抵、小さな友人に用などはない。ただ暇だから構って欲しいだけだ。今回もそうなら、すぐにでも叩き出そうと身構えていたが、どうやらごく希な「本当に用がある」方だった様子。
「オッサンが呼んでるよ。本業だって」
 本業という言葉を聞き、軽く息を吐く。
「解った」
 分厚い本をバタンと音を立てて閉じ、彼は立ち上がった。
 これで又、しばらく試験勉強はお預けだろう。間近に迫った試験は気になるが、「本業」を疎かには出来ない。
 別段、本業が嫌なわけではない。ただこの職についての経験がまだ浅く、学ばなければならない事があまりにも沢山ありすぎる。故に本業の為に学問に勤しんでいるのだが、その本業の為に学問が進まない。そんな矛盾した状況に溜息の一つも吐きたくなる。それが彼の本音。
「教授は大学か?」
「うん。なんか別の知らないオッサンと一緒にいるよ」

 妖精から見て、人間は見た目の区別が付きにくいのだろうか。それとも彼女だけが特別なのだろうか。ブンブンと呼ばれリンリンと主張するピクシーは、人間の男性を「ガキ」「オトコ」「オッサン」「ジイサン」の四分割にしか区別して呼ばない。
 それでも付き合いがそれなりに長くなった学者は、彼女が「オッサン」などの名称の前に付ける形容詞で誰の事かを判断している。ただ普通に「オッサン」の場合は世話になっている教授。「知らない」と付けば来客を意味し、本業と関わるならおそらく依頼者となるだろう。
「・・・やっかいな依頼じゃないと良いんだけど」
 そんな事はないだろう。本業の性質上、やっかいでない仕事はあり得ないから。
 妖精や妖怪,悪魔といった類と人間との間に起きたトラブル。それを解決するのが本業。「やっかいではないトラブル」などありはしないし、あったとしたら仕事にならない。出来るだけ長引かなければ良いなと願いながら、学者は上着を手に部屋を出て行った。

 ピクシーが言っていた「知らないオッサン」は、予想通り依頼人であった。
 彼は青ざめた表情のままうつむいている。その顔を上げたのは、学者が応接室に訪れた時のみ。少なくともその時以外に依頼人は学者の顔を真っ直ぐに見た事はない。
「初めまして、妖精学者の天道寺(てんどうじ)鷹丸です」
 学者の一礼に依頼者もぺこりと頭を下げ、そしてそのまま依頼者は顔を上げることはなかったから。
「教授にはもう話されているでしょうが、もう一度詳しい話をお願い出来ますか?」
 出来る限り丁寧に、依頼内容を話すよう促した。
 学者の「表だった」地位は大学院生。隣に座っている教授の教え子という事になっている。それだけに、教授と席を同じにする時ほど依頼人に軽く見られてしまう傾向にある。その為学者は依頼人の信用を得る為に出来る限り丁重な対応を心がけている。
「大口さん、彼ならあなたのお嬢さんを救う事が出来るはずです。どうか話して頂けませんか?」
 教授も学者の立場を理解している為助け船を出す。大口と呼ばれた依頼人は教授にも促された事で、ようやく重い口を開いた。
「どうか・・・どうか娘を助けてやって下さい! もう、ここしか頼れる所がないんです!」
 顔を上げた依頼人は、うつむく事で溜めていた感情を爆発させるかのように、ソファーから腰を上げ身を乗り出し、テーブルに手を突きぐっと顔を学者の前に近づけ懇願した。
「おっ・・・落ち着いて下さい。まずお話を聞かない事には何も出来ませんから・・・」
 切羽詰まった気持ちは理解出来るが、話を聞かなければ手の出しようもない。学者は軽く手でまあまあと、落ち着くようにとジェスチャーで伝える。
「すみません・・・」
 再びソファーに腰を落とした依頼人は、また顔を伏せうなだれてしまった。しかし口はぽつりぽつりと「事情」を語り始めた。
「実は・・・先月から、娘が部屋に閉じこもったまま出て来なくなりまして・・・」
 依頼者の話は、こうだ。
 一ヶ月程前から、依頼者の一人娘が部屋から一切出て来なくなったという。それだけなら、ただの「反抗期」か、最近世で騒がれ始めた「引きこもり」「ニート」といった社会問題なのかと思われがちだが、ここに相談しに来ただけあり、そうではないらしい。
 娘が部屋に閉じこもってからは、一度も部屋を出て来ない為様子が全く解らないという。それでも食事と便意だけはどうしようもないのか、家に誰もいない間にすませているらしい。しかも長期的に閉じこもるつもりでいるのか、娘が部屋から出て又戻る間に、全ての「食物」が一切持ち込まれてしまうらしい。それこそ調味料や加工前の食材に至るまで。
 その極端な食欲と、ある決定的な事柄で依頼人は一つの仮説を立てたらしい。
「どうやら・・・娘は部屋に誰か、匿っている。「最初は」そう思っていたんです・・・」
 その仮説に辿り着いたのは、依頼人が籠城する娘にしびれを切らせ、強引に扉を開けようとした時だと言う。
 斧で壊してでも扉を開けようと決意した依頼人が部屋の前まで来ると、両親に・・・特に母親に対し罵詈雑言を浴びせまくった。ただのその罵声は、明らかに娘の声ではなかったと依頼人は主張した。言葉の柄悪さに似合うガラガラと押しつぶれた声。どう聞いても少女の声には聞こえない、そんな声だったらしい。
 あまりの罵声に母親は泣き崩れ、その時は扉を開ける事を断念したらしい。
 それからは説得しようと何度も訪れるが、有る事無い事とにかく騒ぎ立て、手の施しようが無くなり、ついには「その道のプロ」へと依頼し始めた。
「カウンセラーの先生や・・・藁にすがる思いで宗教団体の方にまで頼みました。しかし皆さん、娘が匿っている「と思っていた」者の罵声に、為す術無く帰っていきました」
 聞く耳を持たぬどころか、こちらの声が届かぬ程の音量で罵倒し続ける為、まさに「話にならない」状態。頼り雇った者達は皆さじを投げ帰ったらしい。
「誰もあてにならない。しかしこのままでは・・・と、私は娘の為にと再度扉をこじ開ける決意をしました」
 耳に栓をし、強引にドアノブをたたき壊して、依頼人はようやっと部屋へと入り一ヶ月ぶりに娘との再会を果たした。
 しかしそれは、とてもではないが感動的な話にはならなかった。
「娘が・・・娘が・・・「あんな姿」になっていただなんて・・・」
 ガタガタと肩を振るわせ、それでも絞るように声を出し、娘の変わり果てた姿を語る依頼人。
 彼の愛娘は、誰かを匿っていたわけではなかった。聞くに堪えない罵声を発する声の主も、娘だった。ただ、その声を発する口は、愛らしい唇から発せられてはいなかった。
 長い髪に隠れるように、しかしハッキリと見える、大きな口。愛娘の後頭部には、顔に付いている口よりも大きな口が、喚き散らされる罵声の主であった。
 話し終えた依頼者はとうとう耐えかね、うつむいたままポタポタと落ちる雫もそのままに嗚咽を始めてしまった。
 しばし、場は沈黙が支配していた。
 そんな中で、学者は依頼者とその娘を哀れみながら、今回の仕事がかなりやっかいな事になる覚悟を決めていた。
「お話は解りました・・・すぐにでもお宅に伺いお嬢さんをお助けしたいのですが・・・その前に、二,三質問させてください」
 どうにか嗚咽を止めようと懸命な依頼者は、学者の言葉に頷くのが精一杯であった。
「娘さんの事は・・・奥さんに話されましたか?」
 ごく普通の確認事項にしか聞こえない質問。だが今回の事例では、最も重要なポイントがそこにあった。
「いえ・・・妻は始めに娘の罵声を受けてから・・・ショックのあまり実家へと帰ってしまったので・・・」
 ショックのあまり・・・か。学者は母親が受けたという「罵声」の内容がある程度予測出来るだけに、受けたショックも想像が付く。ただその内容が内容だけに、同情はあまり出来ないのだが・・・。
「教授・・・ちょっとすみませんが・・・」
 言葉を濁しながら、学者は教授に声をかけた。
「んっ、ああ・・・では、終わったら声をかけてください。私は資料室にいますから」
 学者の要求を察した教授が席を立ち、静かに応接室を出て行った。
 ここから先、あまり人に聞かれたくない話になる。そうなれば出来る限り人払いをした方が良い。教授は仕事の仲介はしても、直接仕事に絡むことはない為、この場にいなくても問題はない。依頼者と学者だけがいれば充分であった。もっとも、あくびをしながらテーブルの角に座っている妖精もいるのだが、彼女の事は依頼者から見えていない上に妖精もこの話に何ら興味を示していないので問題はないだろう。
「・・・これから、かなり立ち入ったことを伺います。人に話したくないと思われているだろう事も伺いますが、どうかお気を悪くされずに答えて下さい。お嬢さんの為に」
 質問が質問だけに、前置きが丁寧になる。何を聞かれるのかととまどう依頼人に、さてどう話を切り出すか・・・学者は最初の一言を発するのに、随分と時間を有した。
「実家に帰られた奥さんから、何か話はありましたか?」
 まずは外堀から。さすがに直球で中核を尋ねるわけにも行かず、無難な質問から攻めた。とはいえこの質問も重要なのだが。
「いえ・・・妻の実家にいる義母からは、妻が寝込んでいると連絡は受けましたが・・・それが何か?」
 寝込んでいる・・・か。それが嘘か誠かは判断出来ないが、少なくともそう連絡させるくらいにはショックを受けているのだろう。学者は冷静に判断し、同時に冷静な自分がどこか人として誤っているかもしれないと苦笑さえした。人の生死が関わっているにもかかわらず、冷徹に推測していく自分に。
「お嬢さんは・・・十五歳前後ではありませんか?」
 依頼者の疑問には答えず、質問を続ける学者。
「えっ、ええ・・・そうです。あの、先ほどから何を聞かれているのかサッパリ解らないのですが・・・」
 依頼者が戸惑うのも無理はない。娘の異変と質問内容がどう繋がるかが全く見えない質問ばかりなのだから。
「・・・今の娘さんの前に、お子さんはいらっしゃいましたか?」
「?・・・いえ、娘は一人だけで、上にも下にも子供はいませんが・・・」

 依頼者の言葉に、学者はほんの少しだけ胸を撫で下ろした。もし、「鍵となる子」が依頼者の子供だったとしたら、自体はかなり複雑で悲惨なことになっただろう。
「では・・・奥さんは再婚で、再婚される前にお子さんがいらっしゃいましたね?」
 意味不明の質問を続ける学者に、依頼者は戸惑いを隠せないが、それでも娘を助けることに繋がると信じて丁寧に答えていく。
「えっと・・・確かに妻は再婚だったようですが、彼女に子供がいたという話は聞いたことありませんけど・・・」
 何が娘のことに繋がるのか。その憶測も立てられぬまま懸命に答える依頼者。その様子を見ながら、彼が嘘を付いていないことを確信している学者であったが、だからこそ尚更複雑になっている人間関係に頭を悩ませ、口を閉ざしてしまう。
 しばし続く沈黙が、依頼者の不安をかき立てていく。
「あの・・・娘の事とどんな関係が・・・」
 差し出がましい事かもしれないと、おずおずと尋ねる依頼者。しかし沈黙に耐えきれず、質問の意図を問いただしてしまった。
「すみません。意味の解らない質問なのは承知しているのですが、重要な事ですので・・・」
 またしばらく沈黙が続き、より一層依頼者の不安がかき立てられる。
 これ以上考え込むのはまずい。学者は原因の根本をハッキリと特定出来ぬまま、しかしハッキリと現実として起きてしまっている事柄だけを伝える事を決めた。
「結論から申しますと・・・お嬢さんは「二口女」という妖怪になってしまった・・・いや、二口女「だった」んです」
 二口女という聞き慣れぬ単語は理解出来ないが、妖怪という言葉の意味は解る。あまりに唐突な結論に、依頼者は上手く頭が回らない。
 そしてある程度理解出来たところで、依頼者は一言言いたくなった。そんな馬鹿な話があるか、と。
 そう否定したかった。妖怪などバカバカしい、と。
 だが、変わり果てた娘の姿を見た後では、そんなバカバカしい話も素直に受け入れてしまう。受け入れたくもない事実を、すんなりと。
 むしろ、依頼者にとっては妖怪という耳を塞ぎたくなる事実よりも気になることがあった。
 学者がわざわざ言い直した言葉。娘は妖怪「だった」というその言葉。
 その真意を伝えるのが、学者にとって一番辛い。だが今後この依頼者や彼の娘が明るく生きていく為にはどうしても伝えなければならないこと。
 気が重い。妖精学者という仕事の最も辛く難しいところは、妖精や妖怪といった存在を理解して貰うこと。今回のケースで言えば、信じたくなくとも娘の異形を目の当たりにしているだけ依頼者に存在を信じて貰うのは容易かったが、そこに至る経緯を理解して貰う・・・というより、納得し受け入れてくれるかどうかが重要で難しいところ。
 一呼吸おき、覚悟を決めた学者は、ゆっくり丁寧に、そして慎重に、言葉を選びながら「真実」を語り始めた。

 依頼者の家にたどり着いた時は、翌日。それもとっくに日は沈み月が煌々と夜空を照らしている時間。
 重い足取りの学者と依頼者は、両手に「食料」をたっぷり抱え込みながら、二階にある依頼者の娘がまだ閉じこもっている部屋へと歩を進めた。
「こちらです・・・」
 依頼者が案内した部屋。そのドアはノブが壊され、簡単に開閉出来るようになっている。
 荷物を置きドアを開けようとしたその時、部屋からドスのきいた声が響き渡ってきた。
「何しに来やがった偽善者! お前に出来ることなんか何一つありはしないぞ! それとも、「あの殺人犯」のように私を殺しに来たか! いいか、私は・・・」
 続けられる罵声を意に介せず、学者は勢いよく扉を引き開け、そして廊下に置いた荷物から素早く「ケーキ」を取り出した。
 甘いにおいが、ツンとむせ返すほどの悪臭に包まれてしまっている室内に漂う。その香りに釣られて、黒い「何か」がケーキ目掛け伸びてきた。
 それは髪の毛。一ヶ月もの間風呂に入れなかったために痛んでしまっている長い黒髪が、二つの束になってまるで蛇のように伸びてきた。そしてケーキを掴むと、それを引き戻し「後ろの口」へと運び込む。ぐしゃぐしゃと音を立てながらケーキをむしゃぶる後ろの口は、食べるのに夢中で先ほどまで勢いよく浴びせていた罵声がピタリと止んだ。
「これでゆっくり話せるかな。初めまして。私は妖精学者という仕事をしています、天道寺鷹丸と言います」
 持ち込んだ食料を部屋に持ち込み並べながら、学者は自己紹介を始めた。
「もう判っていると思うけど、「その口」は食欲を優先するんだ。だから黙らせるには食べさせるのが手っ取り早いんだよ」
 既に最初のケーキを食べ尽くした後ろの口が、並べられた様々な食料を片っ端から髪の毛を用いて運び込んでいく。その様子を見ながら、学者は後ろの口が見せる食欲とは対照的にやせ細ってしまった少女に語りかけた。
「あなたが・・・助けてくれるの? もう、もう私こんなの・・・」
 安心の為か、泣き始める少女。そんな彼女に、一瞬なんと声をかけて良いのか学者は戸惑った。
 助ける。確かに、学者はその為にここへ訪れた。だが、少女の望む「助け」とは内容が異なっている。それが解るだけに、学者はどう話を切り出すべきか戸惑った。
「大口・・・結香さんでしたね? もう薄々ご存じなのでしょうが、あなたにとって辛いことを改めて認識して貰います。そうしないと、前へ進めないから・・・」
 辛いこと、という言葉にぴくりと反応する少女。そして同じく言葉に反応し辛そうにうつむく彼女の父親。
 認識させる学者も、やはり辛い。だが、ここで真実をごまかし続けても状況が良くなることはない。学者は改めて意を決し、言葉を選びながら話し始めた。
「結香さん。あなたは「二口女」という妖怪です。これは呪いだとか病気だとかそういう事ではなく、生まれた時から・・・あなたは妖怪だったんです」
 人間として育ってきた者が、自分は妖怪かも知れないなどと思うことなどありはしない。夢見がちな女の子が「天使になれたらいいのに」「魔法使いになれたらいいのに」などと憧れるのならまだしも、誰が醜い妖怪になどと思うだろうか?
 真実を告げられても、少女は微動だにしなかった。あまりに唐突で想像すらし得ない真実に、理解の範疇を超えてしまったのか。いや、そうではない。
 彼女は知っていた。いや知らされていた。後頭部に突然現れた、憎く醜き二つ目の口に。
「原因は・・・あなたのお母さんが、あなたが生まれる前に、一人の女の子を餓死させてしまった事にあります」
 少女はただ、うつむき学者の言葉を聞くだけ。室内はしばし、むしゃむしゃと人の気も知らずに次々と食料をむさぼり食う二つ目の口の音だけが木霊していく。
「その事は・・・おそらく真っ先に、その口が言い出した事だと思いますが・・・そうですね?」
 黙ったままの少女は、悲しげにこくりと頷いた。
「初めて・・・「この口」に気付いたのは、「お前の母さんは人殺しなんだ」という言葉でした」
 蚊の鳴くような声で、弱々しく少女は語り始めた。
「最初は、テレビでも付けっぱなしにしていたのかと思いました。でもテレビは消えているし、夜だし、部屋には誰もいないし・・・」
 一ヶ月前。少女が部屋に閉じこもる事になった夜。彼女はしわがれた奇妙な声を聞く事になる。その声主を捜せど姿は見えず・・・おかしいなとなにげに手で頭に触れた時、自分の身体に起きた異変に気付いたのだという。
 こんな姿は人に見せられないと部屋に閉じこもるも、打開策が全く無い状態では悪化の一途をたどるばかり。そんな中でも後ろの口は話し続け、事実かどうかも確かめようのない事をベラベラと話し始めたらしい。
「この口は・・・お母さんが昔、私が生まれる前に・・・義理の娘を飢え死にさせたって言うんです。最初は信じられなかったんですけど・・・」
 何度も聞かされた話に、少女は否定も肯定もする気力を失っていた。もはや、正常な判断が出来る精神状態ではない。
 そんな少女に、後ろの口が語る話が真実だと確信を持つようになったのは、両親が意を決してドアをこじ開けようとした時。
「後ろの口は、お母さんとお父さんに、私にしたのと同じ話をしました。あの時、私はこの話を二人が全くのデタラメだと言ってくれると思っていたのに・・・」
 事実、父親は「何馬鹿な事を!」と娘を叱った。だが、母親が信じられない程敏感に一言一言に反応し、喚き叫びパニックを起こした。
「あの時は、妻が「ありもしない暴言」に傷ついたものだと思っていましたが・・・今にして思えば、事実を言い当てられ混乱したのでしょう・・・」
 娘に代わり、父親が代弁する。
 父親も又、二つ目が言い放った言葉を今は信じている。確かな証拠を得た事で。
「・・・二口女は、継母によって飢え死にさせられた娘が、継母への怨念で生まれさせる妖怪です。つまり・・・あなたが二口女として覚醒してしまった事は、同時にあなたのお母さんが継子を餓死させた事があるという証拠になります」
 娘は当事者として後ろの口に、父親は学者の口から告げられた出生の秘密。にわかには信じられない話だが、二人は現実の事と受け止めている。それを改めて認識させる苦行に、学者は胸を締め付けられる。
 不幸中の幸い・・・と言うには酷い話だが、学者にとって二人がすんなりと事実を受け入れてくれた事は救いだった。場合によっては認めさせるだけでかなりの手間と時間を労したはず。
 これだけスムーズに事が運んだのは、母親の悪事がすぐに露見した事も大きい。
 学者は父親と共に自宅へと行く前に、母親の所行を確認する作業に入った。彼女の戸籍と犯罪歴を調べるという作業に。
 そこで判明した事は・・・彼女は再婚する前、初婚の時に子持ちの男性と結婚している。そして離婚前に、その子供が「事故」により死亡している事実が発覚した。
 そして子供の死亡に関しては、結果として「事故」とされているが、児童相談所などの施設が調査に乗り出していた。決定的な証拠が掴めぬまま母親は無罪とされているものの、かなり黒に近いグレーな判決であったらしい。
 施設や警察の調査が至らず証拠が掴めなかったとはいえ、事実は事実。こうして、怨念から二口女が生まれてしまったという事実は、今ここにある。
 むろん、直接本人である母親に確認を取ろうとした。だが何かを察したのか、それとも精神的に追いつめられたのか、母親も彼女の実家に住まう人々も、こちらの応答に拒絶の姿勢しか示さなかった。これが、むしろ彼女の旦那に妻が罪を犯したのだと確信させる事になったのは・・・皮肉な事だ。
「・・・ねぇ・・・これ、治るの?」
 悲しげな瞳が、学者に向けられる。溢れんばかりに潤んだその瞳は、僅か、ほんの僅か、希望の光を宿していた。もしかしたら・・・絶望的な現状を受け入れつつある少女が、最後にあがく希望。
 そんな懇願を受けながら、学者は指一本で崖に捕まりもがく少女をたたき落とすような一言を発しなければならなかった。
「・・・治るという概念がありません。あなたは生まれた時から・・・二口女という妖怪だったのです」
 堪えていた涙が、堤防を打ち破り滝のようにあふれ出す。そして娘の様子を見ていた父親も、堪えきれず手を口に当て嗚咽し始めた。
 一人、学者は悲しい親子を見守っている。

「ここが、君がこれから過ごす学生寮だよ」
 悲しき現実を受け入れてから更に一ヶ月。少女は学者に連れられ、転入する事となった学園の寮へとやってきた。
 生まれ変わった気持ちで、自分の全てを受け入れる為に。
 ひとしきり泣くだけ泣いた夜。学者は少女に二口女である事実を受け入れ生きていく事を勧めた。それが、彼に出来る「助け」であったから。
 学者はまず、二つ目の口はある程度コントロールが効くようになる事を教えた。制御出来れば、昼間は普通の人間と同じように生活出来ると。ただその為には、それなりの訓練と、なにより自分が妖怪である自覚を持つ事が大切だとも教えた。
 これまで人間として育ってきた少女が、突然妖怪だと自覚しろと言われても難しい。現実に二つ目の口がある事を認識してもなお、心は抵抗してしまう。
 それは、妖怪という存在に対し「恐怖」と「嫌悪」の念しか抱いていないから。
 その「誤解」を説くが少女にとって最も急務。そこで学者は、実際に妖怪達とふれあう事を提案した。
「この「有栖(ありす)学園」は日本唯一の超巨大学園都市でね。幼稚園から大学院まで、全ての教育機関がそろった学園なんだ」
 既に少女には説明済みだが、改めて学者はここの暮らしを説明する為に一から話し始めた。
「だから君が通う中学も、俺が籍を置く大学院も、この学園内にある。君の進学についても、ほぼエスカレーター式に進級出来るから心配いらない。もちろん、それなりの試験はあるんだけどね」
 進級の事も少女にとって大切な事だが、それ以上に大切な事がこの学園にはある。
「この学園は、とにかく在籍する生徒数がハンパなく多い。そんな生徒の中には・・・君と同じ妖怪や妖精もいるのさ」
 有栖学園が設立された真の目的は、「普通ではない者達」の保護にある。枯れ葉を隠すなら森の中、と言うが、まさにその理論と同じく、沢山の人間の中にこそ隠し匿うには最適であり、そして人間に合わせた生活をしていく上でも大切だという創立者の思惑がある。
「もちろん寮のルームメイトも・・・お、ちょうどいい」
 こちらに気付いたのか、一人の少女・・・と呼ぶにはちょっと抵抗がある長身の女性が近づいてきた。くちゃくちゃとガムを噛み、手をスカートのポケットに収めた姿は、仮に「少女」と呼ぶなら、前に「不良」という修飾語を付ける必要がありそうな、そんな出で立ち。
 ただその不良スタイルは、正直「今時の」とは言い難い。スカートは地面に届きそうな程長く、髪も腰まで伸ばしている。
「よっ、インテリ。熱々のデート中かい?」
 そして何より、言葉遣いが古くさい。
「今日からお前のルームメイトになる子を案内してるんだよ」
 学者ですら古いと感じる80年代昭和スタイルの少女。そんな少女に、21世紀平成少女は面くらい怯えている。
「ああ・・・形(なり)はこんなだけど、心配いらないから」
 我ながら説得力無いなと思いながら、それでも学者は安心させようと転入生に声をかける。
「こいつは鳥越明菜。君のルームメイトになる先輩だ。学年は君の一つ上になるけど、歳はもっと離れてる」
「余計な事言ってんじゃねぇよ」

 いずれ解る事ではあるが、あまり言われたくない事を言われ、少女は毒づいた。
「彼女は百々目鬼(とどめき)という妖怪なんだ」
 妖怪の名を言われてもピンと来ない。転入生はどう反応して良いのか戸惑っていた。
「ああ・・・こんな感じね」
 転入生はまだ「こちら側」に来て日が浅い。それを察した在校生が、長袖をめくり長いスカートを足が見えるように持ち上げた。
 その姿を見た転入生は、ヒィッと軽く引きつった悲鳴を上げてしまう。
 腕にも足にも、無数の目がこびりついている。よく見ると、その目は人の目ではなく、鳥の目をしていた。
「あはは、見慣れないと気持ち悪いよね。でもま、たいして不自由はないぜ。隠すのに夏でも長袖着なきゃならないのと、プールや海へ遊びに行けないくらいかな」
 豪快に笑い飛ばす在学生を見て、一瞬でも気持ちが悪いと嫌悪の視線を向けた事を、転入生は恥じた。
 自分だって、その気味悪い妖怪なのにと。
「ああ、気にすんな。こんなのは慣れなきゃそういう反応するもんさ。アタイもさ、自分の身体がこんな事になった時は、そりゃもお大騒ぎしたもんさ」
 バンバンと転入生の肩を叩きながら、妖怪の先輩はまた豪快に笑った。
「彼女もね、昔は普通の人間だったんだ。百々目鬼はスリを働く女性に、お金の祟りが身体に宿ってなる妖怪でね。見た目通り、「昔は」そうとうなワルだったんだよ。今ではちゃんと更正・・・したよな?」
 説明しながらも、最後は疑問系で尋ね返す学者。
「失礼な。こんな身体になって親に捨てられもすりゃ、グレるか更正するしかないでしょ。アタイはちゃんと、お天道様の下を堂々と胸張って歩いてるぜ」
 大きく張り出している胸を更にぐっと前に出し、不良少女は言い放った。堂々としたその姿は、百々目鬼である事を恥じた様子は微塵も感じられない。
 そんな先輩の姿を半ば羨ましそうに、しかし半ば哀れみの目で見つめながら、転入生は先輩の一言に反応した。捨てられた、という一言に。
「あの・・・」
 だが、気になる一言を尋ねる訳にはいかなかった。もし自分なら、尋ねて欲しくないから。
「・・・ま、アンタにもアンタの身の上があるだろうけどさ。そいつはゆっくりと時間をかけて解決していきな。アタイもそうやって来た・・・」
 今度は優しく、ぽんと転入生の肩を叩く先輩。
 痛みは、当事者にならないと解らない事が多い。妖怪だと知らされ家族の絆がズタズタになった少女の痛みは、同じ痛みを経験してきた・・・まさに「先輩」の存在が支えになる。
 連れてきて正解だった。二人の様子を見ながら、学者は己の導きが正しかった事を確信する。
「で、アンタはどんな妖怪なんだい? つーか、まだ名前も聞いてなかったね」
 尋ねられ、慌てる転入生。先ほどから驚いたり悲しんだりと気の動転が激しかったせいか、まさに「気」が緩んでしまった。
「おう、俺様は二口女。「本体」の名前は大口結香ってんだ。よろしく頼むぜ先輩」
 押しつぶれたような声が、少女の後頭部から響く。慌てて両手で後頭部を押さえつつ、「気」を取り戻し後ろの口を制御する。
「あはは、二口女か。なかなかイカしてんじゃん。それにそのウブな顔。マブいねぇ」
 恥じらう乙女をからかいながら、だいぶ気に入った様子のセクハラ少女。叩いていた肩をぐっと引き寄せ、空いた方の手で軽く頭をなで回す。
「じゃ、こっからはアタイが案内していくよ。他に用事はないんだろ?」
 特にないと答えた学者の言葉を聞き、二人は寮内へと姿を消していった。
 万事解決とはまだ行かないが、少女の方は心配はなさそうだ。学者はホッと、今回の仕事が終わりに近づいているのを感じていた。
「残るは・・・」
 最後の「つめ」を確認しに、学者は学園の応接室へと向かった。

「なにからなにまで、ありがとうございました」
 深々と頭を下げる依頼者。学者はまあまあとなだめ席に座るよう促した。
「お嬢さんの方は、もう心配いらないでしょう。ご主人には辛い事でしょうが、彼女は妖怪として明るく生きていけると思います」
 まだ色々と戸惑う事も多いだろうが、同じ境遇の者達が傍にいれば、次第に慣れ心の傷も癒えるだろう。
 少女はそれで良い。だが、傷を癒さなければならない者は他にもいる。
「それで・・・奥さんの方は・・・」
 あまり立ち入るべき事ではないのだが、今後の事を考えると聞かぬ訳にはいかない。言葉を濁しながら、学者は尋ねた。
「はい・・・妻の方から、離婚届が先日届きました。今日こちらに訪れる前に、それを提出して参りました」
 結局、実家に「逃げた」母親は、そのまま娘との縁を切った。
 父親の話では、母親は病院に通うようになったらしい。むろん、精神科の病院へ。
 娘が妖怪になった事と、過去の悪事をさらけ出された事が精神に負担をかけ、壊れかけているらしい。
「妻が犯した罪については・・・私からは何とも・・・ただ、妻に対する復讐に娘を巻き込まれたのは・・・」
 心を壊しかけている母親の姿を見て、餓死させられた子供は満足なのだろうか? なんにせよ、その復讐の為に二口女になってしまった少女は誰を怨めばよいのだろう?
 いや、誰も怨むべきではない。その為に、学者は彼女に妖怪としての道を歩み生きていく事を勧めたのだから。
 そして学者が更に思う事。それは、被害者はもう一人いるのだという事実と、彼に対するアフターケア。
「・・・娘さんは寮に入りましたが、面会は自由ですから気軽に尋ねに来て下さい。まだ後ろの口を制御しきれないようなので、しばらく外出は難しいでしょうが、一年も経てば一緒に旅行も出来るようになりますよ」
 ありがとうございますと、依頼者は再び頭を下げる。
 妖怪になった娘を持つ父親。彼の心境はいかがなものなのか。多くを学んできた学者にも、彼の胸中は計り知れない。
 母親の事を調査しているうちに、学者は父親と娘の関係を知った。二人には、血縁関係がない事を。少女は母親の連れ子として父親と出会っている。
 それでも、父親は父親として、精一杯の愛情を娘に注いでいた。
 今にして思えば、少女が二口女になってしまった事実を受け入れられたのは、父親の愛情あってのものだっただろう。
 これまでにも近いケースは聞き及んでいるし、学者本人も過去一度だけ似たケースの事件に関わった経験がある。その多くが、両親に捨てられるといった経緯になってしまう中で、ここまで娘に愛情を注げられる父親も珍しい。
 それだけに、この父親に対するフォローもしなければならないだろう。
 娘を捨てた、血の繋がった母親。
 娘を愛し続ける、血の繋がらない父親。
 愛とは、なんだろう。父親を助けようと思えば思う程、学者はどう助けるべきかに悩む。
「・・・学園は基本的に、他の学校とそう変わりありません。年中行事も色々行いますので、その都度娘さんの成長を見に来てあげて下さい」
 同席していた教授が、学者のフォローに回った。
 やれる事はやっている。後は依頼者の気持ち一つ・・・なのかもしれない。哀れんであれこれ手を出そうとするよりも、今は二人の親子を見守るべきなのか。
 もう何回目かの礼を述べながら、依頼者は席を立ち、応接室を後にした。それを見届けた学者はしばらく立ち上がったままでいたが、溜息と共に深くソファーに腰を下ろした。
「お疲れ様。よく頑張りましたね」
 教授からの労い。それを聞きながら、学者は考えた。
 自分は、精一杯やった。だが充分だっだろうか?
 もしかしたら、もっと良い方法があったかもしれない。親子を離ればなれにすることなく一緒に暮らせるように出来たかも知れない。母親の方もどうにか出来たかも知れない。そう思うと、達成感が全く湧かなかった。
「教授・・・俺は妖精学者として・・・まだまだ足りてませんね。色んなものが」
 机上では、薬剤師の試験に向けて勉強している。妖精学者として必要な知識だから。
 しかし、実際に事が起きた時に重要な知識は、机上で学ぶ知識ではない。
 気構えや覚悟。そして気遣いや決断力。なにより、相手を思いやる心が重要なのだ。その相手が妖怪だろうと人間だろうと。
「あなたは頑張りましたよ。あの親子も、あなたがいたからこそ幸せになれるんですから」
 教授からコーヒーの入ったマグカップを渡され、学者はまた思う。
 穏和なこの教授のように、人生という経験を積まないと見えてこないものもあるのだろうなと。
 せめて妖精学者として一人前になる為に、あの父親が見せた愛情の根元が解るくらいにはならないと・・・学ぶべき事の多さに少しばかり気が遠くなりながら、しかしそれを修得してみせると強く心に誓う学者であった。

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