フィディエル

ウィル・オ・ザ・ウィスプ

「そんな靴を履いて入り込むなんて……失礼にもほどがありますわ」開口一番にコレである。俺は溜息を混ぜながら反論を始める。「こんなところで脱げたら大変だろ?」「それが「醍醐味」ではないですか。そんな脱げない物を履いてこられては、面白みがありません。まったく、あなたは何も判ってくださらない……」いや、判らないと言うよりは判りたくないというか……沼地に足を取られ片方の靴が脱げる悲劇を、誰が望んで起こす?「言い換えるなら、あなたは卑怯者です。そんな靴だかエプロンだか判らないような物を着てくるなんて」「卑怯者まで言うか」ゴム長靴とゴム前掛けが一つになったつなぎ服。魚市場にでも行かないと見かけることもないような、そんな完全防備で彼女の住まう沼地に来られたことがお気に召さないらしい。「あの、突然片靴が脱げたときの驚いた顔。そして勢い余って脱げた足を沼地に突っ込んでしまったときの失望感。そして必死に靴と足を出そうともがく様……なにより、どうにか抜け出しても泥まみれの足のまま靴を履く居心地の悪さに眉をひそめる姿が、私の心を和ませてくれるというのに……あなたは私の幸せを奪う、悪魔ですか!」悪魔のようなドS性格の少女に言われたくはない。妖精は総じてイタズラ好きだが、面と向かってここまで言われるとなぁ……もう苦笑いしかできないよ。
頬を膨らませ不機嫌さを隠そうともしない少女は、それでも来客に対してそれ相応の対応をし始めた。「それで……ご用件はなんですの?」おっと、あまりのサドっぷりを見せられて忘れてた。こんな格好でここまで来た理由、俺はそれを話し始めた。「河童達から苦情が来ていてね」「あら? 心外ですわね。親しき隣人から苦情が上がるなど、何一つ思い当たることがございませんが?」ウソつけ。俺はまた顔を引きつらせながら、河童達からの伝言を口にする。「あまり「それ」を発生させるなと……せめてそれを放ってぶつけるなとさ」俺は彼女の周囲に漂っているそれ……パチパチと音を立てながら光る球体を指さしながら伝えた。「まあなんということでしょう」大げさに片手で顔をふさぎその顔を左右に振る鬼畜少女。「こんなにも綺麗で可愛らしいのに……折角ですから愛おしい隣人の皆様にも見ていただきたいと、心からの親睦を迷惑だと拒絶されるだなんて……」白々しい弁解に、いよいよ俺の顔も引きつったまま固まりそうだ。まあ妖精である彼女にとって、どんな形でもイタズラをすることそのものが生き甲斐のようなものだから、あまり強く言えないが……被害者である河童達が「妖精だから仕方ない」で納得できるはずもない。まだ怪我をした者が出てないようだが、イタズラというのはエスカレートしやすく歯止めが利きづらい。そうなってからけが人が出てしまっては収拾が付かなくなるからな……そうならないよう苦言を呈するのも俺の務めってことだ。イタズラはしても、彼女と河童達は「親愛な隣人同士」であることに変わりはないのだから。「で、河童達が驚き慌てふためく様は見ていて楽しいか?」「ええ、それはもちろん」少なくとも、今満面の笑みを浮かべている少女にとって河童達は良き隣人なのだ。河童達の心情は遥か空高くにある棚の上に置きっぱなしであったとしても。
まあ俺がちゃんと歯止め役を担えていたかは正直定かじゃないが、ひとまずの役目は終わった。「それじゃ、俺は戻るよ」足下のふらつく沼地の中、俺はよたよたと身体を振り向かせようと片足を大きく持ち上げた。「あら、お待ちになって」バランス感覚が危ういこの状況で、彼女が俺に触れる。軽く押すように、タイミングを見計らったかのように。「折角いらしたのですからせめてお茶くらい……あらあら大変」その手つきは引き留める動作じゃないよな? ビタンと派手な音を立て倒れ込んだ俺を見下ろす彼女の顔は、幸福に満ち足りた笑顔だった。「君の言うお茶ってのは、この泥茶かい?」口の中にまで入り込んでしまった泥を吐き出しながら、悪態をつく。「そんなつもりはなかったのですよ? あなたならお判りいただけますわよね?」ああそうだね。君のドSな性格は充分よく判っているさ。起き上がるにも苦労する沼地で足掻く無様な俺を幸せそうに見つめながら、少女は言葉通りにお茶の用意を始めていた。この後泥まみれの口元に苦労しながら紅茶を飲む俺の姿を楽しむために。

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